わたしの生まれたのは大阪市西成区玉出です。芦屋雁之助の師匠である芦乃家雁玉師匠や五代目桂文枝師匠が近所に住んでいました。雁玉さんの家はすぐ近くで、三味線がいつも聞こえていました。文枝師匠は長く三代目小文枝を名乗り、当代(六代目)文枝(三枝)さんの師匠ですが、玉出本通りの商店街に長く面していた倒壊危険建物があり、高座で「たおれそう」と引用していたような記憶があります。

 その玉出本通り商店街と隣接の玉出公設市場には、母が毎日のように買い物に行っていましたが、今は廃墟になった店も多くなっています。世のならいですがこの移ろいは納得しがたいところです。本通りを西へ国道26号線を超えると生根神社があります。夏祭りの際の「だいがく」が有名で、秋田の竿灯のような提灯山車みたいなものが騒ぐものです。子供の頃に連れて行ってもらって恐ろしくて大泣きしたことを思い出します。生家の一部を売ったときに、庭にあった楠2本が神社に移植奉納されて今も生えていると思います。1本は、伊勢に引っ越した叔父・谷省吾の家の庭にあったものです。

 祖父(わたしの父の父)は、わたしが生まれる前に亡くなっていましたが、奈良県御所市の吉村家から養子にはいって、ハクラン製薬という零細な製薬会社を営んでおり、その関係で父は、薬学を学んでその跡を継ぎました。東京帝国大学医学部薬学科(現薬学部)の石館守三教授の弟子になります。その関係かどうか、庭にはキササゲの大きな木が一本あって、夏にはアブラゼミやクマゼミがものすごい騒音で近所に迷惑を、秋にはまさに木「ササゲ」で細長いササゲのような豆が秋はびっしりなり、大きな葉が落葉しました。庭は広かったのですが、手入れせずにむちゃくちゃな状況でした。

 うちの本家筋である谷回春堂が健胃固腸丸によって繁栄していたため、分家の祖父も零細企業ながら、大阪道修町の製薬業界ではそれなりの地位を占めていたらしいのですが、戦時中に祖父が結核で亡くなり、戦後はまったくふるわなくなっていました。東大の研究室から応召して上海から復員した父は、薬学士・薬剤師の資格を活かして、祖父の跡を継いで零細な製薬業を始めました。薬学の研究ならうまくやっていたかもしれませんが、快活だけれども社会とのうまい折り合いが持てず、かつ経営の才能が皆無であったため、高度経済成長期の風潮に乗れずに過ごしました。薬学の生薬分野の実力はあったので、セチロという緩下剤を開発して、これは今も、ジェイドルフさんに継承されて販売されています。

祖父の小さな製薬業もそれないrの