水害・土砂害対策の対立における学術の役割

 水害・土砂害は、地震に比べると、ちょっとした場所の違いによって被害を受けやすいか受けにくいかが分かれるような自然災害だと考えられます。なので、昔の人は、数年に一度河川氾濫の被害を受けるような川沿いには家を建てずに農地に利用し、山沿いに家を建てて住むようにしたようです。今でも、山沿いに家が並んでいて、裏山がくずれる可能性があるのにどうしてだろうと思うことがあるのですが、山くずれは数百年に一度の頻度で発生し、おじいさんの代から100年程度は大丈夫というところが多いので、河川沿いとは災害の起こりやすさがぜんぜん違っているのです。
 ただ、山沿いにしても沢の出口とそうではない場所では、土砂災害に遭う危険性が大きく違います。ひとつの沢の奥には山くずれを起こすかもしれない斜面が何十もあるのが普通ですから、どこかの斜面で山くずれが起こって土壌層の中に閉じこめられていた地下水が開放されて土石流が発生すると支川と合流しながら山の出口までに土石が流れてきて、大きな被害になります。ちょっとでも、沢の出口から遠い方が土砂害に遭いにくいのは確かです。でも絶対に裏山がくずれないわけではないのですが、斜面から離れているほど土砂害に遭いにくいとは言えます。

 ごはんや風呂に必要な薪などに森林が利用されていた時期に比べ、プロパンガスが利用できるようになった1960年の燃料革命以降、里山の森林は十分成長している場合が多く、山くずれも起こりにくくなりました。また、河川には堤防、沢には砂防・治山ダムが築かれ、数年に一度水害があった昔と比べて、氾濫による水害はめったに起こらなくなました。温暖化で豪雨規模が大きくなってきましたが、経済発展により治山治水にお金を掛けることができるようになってきたため、1960年頃以前に比べ、水害・土砂災害は発生しにくくなっているのは、確かだと思います。
 ところが、防災設備ができたり、森林が成長したりすると、それだけ安全になったとして、山沿いや川沿いに家が建ち、住んでいる人は災害が起きないと安心してしまうようになりました。たまには災害が起こるのは必然なのですが、防災を担う治山治水行政は、その災害を皆無にすることは絶対できません。じゃあ、災害の責任は自然現象だからやむを得ないのか、いや防災行政の過失によるものなのか、対立が生じ、むずかしい判断が裁判に求められることになります。

 そこで、災害に遭われた方と防災行政との間に、解決しにくい対立が生じてしまいます。たしかにその白黒は、事例ごとに裁判に委ねざるを得ないところもあります。しかし、その対立関係において、自然科学が中立的な根拠を提示することは、かなりむずかしいとはいえ、努力すべきことだと思います。

 ところが非常に残念なことに、科学的判断には、行政の立場、それに反対する立場が付随することが多いです。ここで言いたいことは、そうした立場依存性を括弧に入れて、科学的な論拠を相互に交わし、論争することだと思います。そうしてはじめて、裁判での白黒も意味を持つはずなのですが、その入り口のところで、学術の専門家が本来の科学的根拠の役割を果たせていない実態があります。科学の見解がその専門家の社会的立場によって異なる、これはやむを得ないとは思いますが、少なくとも、学術の中で議論を為すべきです。実際の社会的で発生する利害関係の調整や裁判による白黒判断には、こうした学術内の議論が必要だと思います。



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