人間社会の将来のために -第二の枢軸時代を迎えてー

社会の基盤には外界との相互作用がある

 私は経済学のことはわからないので、MMTによる貧困者救済、国の財政再建のどちらを優先すべきなのか、そういう議論に関心があっても、論理的な判断をすることができません。これに対する経済の専門家の意見は分かれているようですが、日本だけではない世界情勢の中で、おそらく、正解と不正解が決まっていないのではないか、と考えています。金銭にまつわるすべてのプロセスは、個々人には動かしがたい強制力を及ぼしますが、人間社会のレベルに限定された問題に過ぎないことです。つまり、人間が産み出して個々人を縛る共有幻想は、それを超えた地球活動のような自然現象よりも人間の生き方において低いところにあって、人間個人がどのように考えようが、とつぜん起こる地震や大洪水のような自然現象の前には、共有幻想がかき消されてしまいます。また生物種の一種ですから、他の生物との共生や競争の相互関係が避けられず、新型コロナのような感染症に社会が大きな影響を受けます。地球活動・生物活動と人間活動の関係における入れ子状の構造(右図)を意識せざるを得ないです。

 他の生物に比べて、きわめて複雑なシステムの中で人間は生きているわけですが、個体が生きるために外界と交わす関係は、生物の一種である限り、人間でも他の生物でも同様です。右図のように、地球と生物と人間の間に交わされるさまざまな相互作用が人間社会においても基盤になっていることは間違いないでしょう。
 生物のなかでも動物は光合成ができないので、移動してえさを探し求める必要がありますが、そのいのちのいとなみにおいて、動物と外界は密接な関係を持って結ばれています。アゲハチョウはミカンやレモンやサンショウなど柑橘類を確実に探し、産卵します。その幼虫は柑橘の葉を懸命に食べて脱皮医を繰り返しサナギになり成長になります。サケは生まれた故郷の河川に戻ってきます。アゲハチョウが柑橘類と関係をなぜ持たなければいけないのか、また、サケが元の川の隣の川に戻ってはまずいのか、これらはなぜなのか十分にはわかりません。生物種と外界の関係は、進化の歴史の中で形成されてきたもので、何か必然的な理由があるのだとは想像できますが、長い時間経過の再現はできませんから、解明がむずかしいことです。こういう生物一般の場合と同様、人間の場合においても、個人と外界との関係の必然性を解明することは容易ではないわけです。
 だからこそ、人文・社会科学という学問が存在していて、人間個人と外界との関係、その関係を基にした個人間の関係から組み立てられる社会システムが、なぜそうしたシステムになっているのか、どのように歴史的に成立してきたのか、その何が問題なのか、また、今後どう変えてゆくべきなのか、などが研究されてきたのでしょう。生物一般が外界と交わしてきた関係についての解明がむずかしいのと同様、人間を対象としている人文・社会科学の問題が難題である根拠の解明がむずかしい理由は、その歴史過程の再現不可能性に求められるように思います。

生物にとって相互作用をわす交わす相手は「もの」にみえる

 さて、アゲハチョウと柑橘類のように、それぞれの生物種の外界との関係は他には変えられない親密さをもっています。人間と外界の関係においても、その親密さの中に「お金」が組み込まれているので、お金をともなわない外界との関係はあり得ないわけです。ところが、この親密な関係は2種類の制約をもつようです。ひとつは、生物個体が外界と交わす相互作用には時間的な限界があって、みずからの老化や他の生物の侵入による感染などで「死」という終焉を迎えます。もうひとつは、生物種が生殖を通じて子孫を残すことで外界と交わす相互作用があり、時間スケールが極端に長くなりますが、外界の変質などによって「絶滅」という終焉を迎えます。6600万年前の天体の衝突によって起こった恐竜の絶滅、現代の人間活動拡大による各種生物の絶滅などが典型的ですが、人類もまた地球の時間スケールよりもはるかに短い期間を経た後に絶滅することが必然的に予想されます。人類が生き続けるような感覚を持ちやすいかもしれませんが、人間が科学研究によって発見してきた生物進化の経過を前提にする限り、将来、人類からさらに進化した生物種の出現や人類の絶滅を想像するのが合理的でしょう。どうなるかわかりませんが、仮に進化によって超人類のような新種が出現したと仮定しても、地球の歴史が生物全体を支配する前提がある限り、人類が絶滅することは確実です。
 このような遠い将来を考えたのは、生物種がその種の存続を目的として生きていることを確認したかったからです。つまり、生物の個体が外界と交わす独特の親密な相互作用関係が定常状態として維持されるのは、ある有限の期間で限られています。それは生物個体に限らず、生物の「種」においても同じです、ですから、どのような生物種であっても、個体の存続期間が死という終焉を迎える時間を延ばそうとする原理、種の存続期間が絶滅という終焉を迎える期間を延ばそうとする原理、そのふたつの原理にに突き動かされて生きています。前者は、生物個体が外界との相互作用を通じてこうむるさまざまなストレスに対するレジリエンス(回復力)として現れますし、後者は、生物個体が子孫を残す生殖欲求として現れます。前者は相対的に単純な生命力にみえるのですが、後者は、複雑な現れ方をし、人間を含む動物では、異性に対する好ましい外観を競うように進化しましたし、有性生殖を単一個体の内部である花のめしべの中で行う高等植物では、美しい花や甘い蜜によって生殖補助者である昆虫を誘うように進化しています。生物各個体は、種が進化の過程で獲得してきた能力を個体の成長過程でも再現することになります(高等動物では学習ということばがあてはまると思われます)。
 興味深く思いますのは、個体の死の回避の原理を犠牲にして子孫を残す原理を優先する傾向は生物種に一般的だということです。私の専門分野の話ですが、急斜面上の土壌層が数百年崩れずに安定を保つのは樹木の根の補強効果が効いていることがわかっています。信州大学名誉教授の北原曜さんは、アカマツ・クロマツ・カラマツなどのマツ類がスギ・ヒノキなどの針葉樹やコナラなどの比べて根が弱くて顕著に切れやすいことを明らかにしました。また、松脂というようにマツ類は燃えやすいです。根が切れやすく松脂が多い理由は、マツ類は木の生えていない日の良く当たる場所に侵入して早く成長するが、林内の暗い環境では成長できない「陽樹」であることから説明できます。つまり、もしマツが生えたままだと他の「陰樹」に取って代わられてしまうので、急斜面に生えているマツが子孫を残すには、土壌と樹木が山くずれを起こしたり山火事が生じたりした方が望ましいというように進化したと考えらえるのです。それくらい、どの生物種であっても、子孫を残す狡猾な戦略によって生き残っているとみなすべきだと思います。

 人間の幼児の場合を考えますと、さまざまな行動は、将来成長したときに外界と交わす(交わさなければならない)相互作用(生産活動やt人とのコミュニケーション)の能力を学習するものとみなされますが、ことばを学んでいない時点では、動物と同じで、進化の過程で獲得されている「母乳を飲む」というような外界との相互作用の能力を発揮していますが、母親の乳房を求める意思ははっきりしています。相互作用を交わしているのですが、個体の主観にとっては、乳房は母乳を得る目的に沿うもの(客体)に「みえます」。哺乳類の動物は皆同じです。最初に示した相互作用の図において、どの生物個体も、営んでいることは相互作用であるのに、相手は客体になります。クマが空腹というストレスにおいて「えさをとる」という外界と相互作用を交わす例を考えると、クマ個体にとっては人間個体は食べ物という客体にみえますし、人間個体にとってはクマ個体は自らを殺そうとする殺害者という客体にみえるわけです。
 ところが幼児がことばを学び食べるものやおもちゃに名前が付くと、欲求が一気に拡大します。というのは、相互作用を交わす対象物であるもの(客体)は抽象化されてしまい、今まさに相互作用を交わしていなくても、将来起こる相互作用の客体として意識されるからだと思います。ビスケットを食べてしまったらビスケットはそこには存在しないですが、ビスケット一般が欲求対象となりますし、ビスケットを含むお菓子一般との比較は欲求比較の対象となるでしょう。ビスケットよりケーキ、ケーキの中でもいちごのはいったものでないと・・・というように、そこに存在しないものが幻想として比較対象になり、欲求が際限なくなってゆきます。ことぼをもたないイヌ個体は、目の前にあるドッグフードを全部食べてしまって残しておきません(膨大に積んであって食べきれない場合は生理的に食べきれないので別問題です)。これは、明日朝食べるドッグフードという目の前にないものは欲求対象にはならないからでしょう。人間の場合は、ことばによって相互作用を交わす客体が幻想に発展するので、ないものがあるかのように思える、というようになって、頭の中で抽象的な客体を欲求できることになると思います。欲求に限界がなくなるわけです。

2500年前の枢軸時代に見いだされた限界・無力さは今に続いている

 このような「ことばによる抽象化」によって拡張した人間欲求は、農業による生産力で支えられて、エジプト・メソポタミア・インダス・中国などに古代文明が発展しましたが、紀元前世5紀頃には、各地で同時に普遍宗教を産み出した、ヤスパースの言う「枢軸時代」が出現しました。つまり、死に対する限界や無力さを意識し、世俗的な欲求を反省し、富を捨てて救済を願って各地を遍歴・修行する隠者や予言者や哲学者が現れました。これにより、インドで仏教、中国で儒教・老荘思想、中東で旧約思想(ユダヤ思想)、ギリシャ哲学など、現代に影響を与える宗教や思想が生み出されました。死について言えば、死は人間を含む生物が外界と交わすレジリエンスが消失する、相互作用関係の変化を表すとしか言えないはずですが、古代には死はもの(客体)として扱われ、他界とか黄泉(よみ)、あるいは、天上・地下・奥山・海洋などへの場所的な移動をみなす「神話」が創られ、社会に通用していました。しかし、枢軸時代には神話が退けられました。隠者たちは、死は捉えることができず超えられない限界という相互作用関係の観点から考察されるようになったと思われます。たしかに一般人との間に意識の差は大きかったでしょうが、ヤスパースによると、間接的な変革が一般人にも起こり、「限界を意識しつつ可能性を拓く」というような精神的緊張を強いられるようになったとのことです。金銭や名誉などの富を欲して争う立場とすべてを捨てて救済を願う立場が相対立するようになったわけで、その意味で、現在もまったく同じ欲求と抑制の相対立する緊張が続いていると言えるのです。

個体死の限界性は共有されている

 このように、枢軸時代以降の歴史は、欲求追究とその無意味さの対立構造に基づいて創られてきたと考えられるのですが、具体的には、「死の限界性」によって死までの時間を遅らせることを他の欲求よりも優先する意識が一般人に共有されてきたことが大きかったと、私は思います。医学の発展していなかった時代には、病気や飢えによる死は、幼児からいつでも起こりうる不幸でしたから、死は偶然に起こる避けにくいものとして意識されていたのですが、死に至る時間が長いはずの子供の死を悼む気持ちは当然特に大きかったはずです。歌舞伎の人気演目である「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」では、自分の子供を主君の子供の代わりにわざと殺害させておいて、自分の子供の首を主君の子供の首だといつわる首実検の場面が出てきます。このような何とも理不尽で凄惨な悲劇を、観客はなぜ高い見物料を払ってわざわざ鑑賞するのでしょうか。子供を失う不幸と公には言えない忠義との対立が主題なのですが、その対立によって生じるいかんともしがたい「死の限界性」という人間に普遍的な感性を確認することを、観客は無意識に欲しているのではないか、と私は思います。いかがでしょうか。

 さて、医学の発展してきた現在では、病気や怪我を治癒して死を遅らせることが現実的になり、他の欲求に比べた延命対策の優先性が顕著に現れるようになってきました。医療技術が高度になっても暴飲・暴食・喫煙・夜更かしなどの不摂生によって死ぬことはあり得るわけです。けれども、右図のように、喫煙欲求を抑制して禁煙する人がここ半世紀の間に急激に増えてきました。この事実経過から、医学の発展によって偶然の死に遭遇する可能性がが減少してきたため、不摂生による死亡の危機を回避したいという欲求が顕在化したのだろうという推測ができます。死の限界性を意識してこれを遅らせる欲求を優先させるからこそ、自主的にこの欲求を抑制するのだと考えられます。
 医学においても、この限界性は当然意識されますから、研究活動は多様な種類があっても延命策という一点に目的が絞られます。他の科学に対して医学の優先度が高いのは、もちろん、一般人が延命に他の欲求にまさる最大の優先性を置いているからですが、ここでは、他の欲求にはきちんとした限界性がないこととの違いに注意したいと思います。例えば、先のことばを学んだ幼児とお菓子の関係と同様、交通手段で考えると、3時間で行ける目的地へ2時間で行ける技術の開発、さらに1時間で行ける新技術、さらに45分・・・というように、科学発展によって際限なく欲求が進んでゆきます。私の専門の水害対策ではもっとわかりやすいかもしれません。水源山地に降る雨量の最大値は誰にもわからないので、治水設備はいくらでも大きくできます。ダムや堤防をいくら増強しても、より規模の大きな降雨によって氾濫水害は起こり、皆無にはできません。欲求に限界性が明確になりにくいのです。死亡年齢についても、100歳より長生きする人もいますから、たしかに医学の発展そのものには限界がないようにもみえないことはありません。しかし、死の場合はどの人も限界がある、最低限このことは誰にも共有されています。しかし、水害発生をもたらす降雨規模にはいくらなんでも限界があるのかもしれませんが、はっきりしません。交通でもテレポートはできないですから限界はありそうですが、やはりどこが限界なのかよくわかりません。決定的に重要なのは、誰でも限界があることを共有しているか、否か、という点です。死においてはそれが共有されているからこそ、喫煙人口の急減症というような、社会的に自主的な欲求抑制が生じ得るのだと思います。枢軸時代に関するヤスパースの指摘「 間接的な変革が一般人にも起こり、『限界を意識しつつ可能性を拓く』というような精神的緊張を強いられるようになった」をあてはめると、「死の限界性の共有の上に医学治療という科学の進歩が重なった結果、一般人にも禁煙という欲求抑制という精神的緊張が強いられるようになった」といえるのではないかと思います。

種の絶滅限界性限界性は共有されていない

  すでに、「生物はすべて、個体の存続期間が死という終焉を迎える時間を延ばそうとする原理、種の存続期間が絶滅という終焉を迎える期間を延ばそうとする原理、そのふたつの原理にに突き動かされて生きている」ことを述べました。 生物の一種である人間は、さらにことばを使って文明を築き、枢軸時代に死の限界を意識することにより、その後は、欲求追究とその無意味さの対立構造に基づいて歴史を創りだしてきました。 ですから、個体死に関する原理は意識として共有されています。しかし、種の絶滅については、個体死と違ってほとんど意識化されていないのではないでしょうか。
 人間の欲求はことばをもっているために際限が無くなる特徴があります。古代以来のこの特徴は、資本主義社会で最大限に達したのだと思われます。ただ注意すべきは、科学発展の支えがないと、心の中に無限の欲求があっても、道具や技術が変化しないので、その制約によって欲求が実現に至らないことです。医学が未熟で偶然の死が起こりやすい時代には、たばこを吸って一服する欲求が我慢して延命する欲求よりも高くなっても当然でしょう。だから、資本主義社会の発展には科学の支えが必要条件になります。とくに、個別の会社は、新しく研究開発された科学技術を先取りして、他社よりも魅力的または安い製品を売ることで儲かる(相対的剰余価値の獲得)わけですから、科学の発展を要請します。そのうち他社も追いついてきますから、またより新しい技術を科学研究に要請します。こうして、資本主義社会と科学研究とは助け合って高速回転するようになりました。ただ、枢軸時代を経て死の限界を共有していますから、「いやいや新しい技術で満たされる欲求など、はかないものだ」という、欲求と抑制の緊張関係は成立しています。ですから、科学技術の発展は、健康に留意して延命するための禁煙などの自主的な欲求抑制にも現に貢献しています。しかしながら、個人の一生を超える種の保存、絶滅時期までの時間延長に関する原理にまつわる欲求抑制には無力です。科学の発展と資本主義社会の儲けの追求から成る高速回転は、欲求を達成させるばかりではなく、欲求の拡大をむしろ強制して際限なく増殖してゆく、それが現代です。
 地球の資源は有限ですから人間欲求を抑制しない限り一方的に減少します。環境も気温上昇などの変化が生じます。それらの結果は人間と生物と地球との相互作用にはねかえってきて、人間という生物種の絶滅への残存時間を縮めるようにはたらきます。種の保存を図り絶滅までの時間を延ばそうとする生物の原理が意識として共有されるには至っていないので、自主的な欲求抑制を行わないわけです。

種の絶滅の限界性を意識する第二の枢軸時代を迎えている

 右図のように、世界の人口は今でも増加傾向にありますが、毎年の増加率は1960年代にピークを迎えてその後減少しています。つまり、1960年頃までは昨年から今年までに増加した人口が一昨年から昨年までに増加した人口よりも多かったのが、1970からは逆に少なくなるように変化したわけです。だんだん人口増加が頭打ちになって、ぞのうち減少に転じることになります。要は、途上国も含めて、地球とその上の生態系が人間を養える容量が限界に達していることが明確になってきたわけです。CO2の排出量も1960年頃に急増し、遅れて大気のCO2濃度も増加しています。つまり、私たちが、高度成長が続いて人口増加が増えていてますます発展するようにると思いこんでいた1960年代に、すでに地球容量は客観的な限界に達し、人間の増殖に強制力を加えてきたということができそうです。グレタ・トゥンベリさんが怒りをもって警告しているように、次世代から将来の子孫を保存してゆくことに対して、人間欲求の拡大が背いていることを、データが表していると思います。したがって、個体死の限界性を意識した枢軸時代に加えて、現在は、種の絶滅の限界性を意識する第二の枢軸時代を迎えたと考えるべきでしょう。

第二の枢軸時代に何から手を付けるべきなのか

 生物は、外界との相互作用を交わしており、地球活動による災害や他の生物による感染症など,外界の強い力を受けています。これに対して個体死に抵抗するレジリエンスの原理と種を保存して絶滅を免れようとする原理で対抗しているわけで、後者は生殖の強い欲求を生み出し、複雑な進化を遂げてきました。人間は生物の一種に過ぎませんが、ことばを獲得して欲求を無限化するようになったのですが、枢軸時代にその有限性を自覚する隠者などの個人が現れたため、それ以後の歴史は、際限のない欲求とその抑制の緊張関係の中で展開してきました。資本主義と高度の科学で代表される現代においては、両者が互いに刺激し合い協力している結果、生活が豊かになる一方、資源・環境問題や貧富の極端な較差など、将来が危ぶまれる危機的状況が生み出されてきました。ただ、科学の発展はレジリエンスに対する医療技術への信頼を一般人に共有させ、禁煙に代表される健康維持のための自主的な欲求抑制をも、もたらすようになりました。
 ところが、個体のレジリエンスの原理とは異なり、種の保存という生物固有の原理は、枢軸時代から現代まで、有限性が共有されることはありませんでした。次世代への負担を減らし、絶滅を防ぐような意識が共有されて、欲求抑制が共有されることはありませんでした。なので、第二の枢軸時代においては、生物の一種としての人間が絶滅する限界性を意識し、次世代以降の種の保存を願って絶滅を遅らせるためには、一般人が欲求を満たすこととそれを自主的に抑制することの精神的緊張の中に生きてゆく必要があるでしょう。これは、枢軸時代に、「人間が個体の死の限界性を意識するようになった結果、その後の歴史が、欲求を満たすことと延命のために欲求を抑制することのせめぎあいの中で展開してきたこと」に対応すると思われます。その場合、医学が個体死を遅らせる技術を開発してきたことが禁煙などの自主的な欲求抑制をもたらしたのと同様、科学研究の果たす役割がキーポイントになるはずです。大学を初めとする科学を担う研究の場で、種絶滅を促進するような研究と種保存に貢献するような研究の間で、緊張した論争が展開されることが必要だと思います。これはあたかも、枢軸時代に中国の諸子百家やギリシャの哲学者が多様な思想を提起して議論したのと似ています。まずは大学において研究者と学生とで議論を始める必要がありそうです。そして、その欲求と抑制の緊張した関係が一般人の間接的な変革を呼び起こしてゆくこと、これによって、種としての人間の子孫に続く歴史が拓かれてゆくのだと思います。

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