環境問題が軽視されるのはなぜか

 単細胞生物、植物、動物を通じて、生物は外界からみずからを守る性質と子孫を残す性質をもち、両者が相対立する場合には子孫を残すことを優先することで、進化し、相互に依存し合う生態系を作ってきました。基盤では人類もその原理の中にあると考えられます。ところが、人類においては、言語による客観化を通じて、個体生命の限界としての死が意識されてきました。人類以外の生物では意識されることはありません。人間個体においてもあかちゃんは客体化が未熟です。しかし、外界からみずからを守る性質は、人間のあかちゃんも他の生物も共通して持っています。人間の赤ちゃんの場合は、他の生物と違い、成長とともにみずからの生存には時間的な限界があることを学び、自らの意思で、現に直面している生命の危機ではなくても、延命に必要な対策を意識的にとるようになります。この死の意識化は、人類だけが進化の過程で獲得した性質です。
 ヤスパースのいう「軸の時代」である紀元前500年頃の世界宗教の発祥時代から現代への期間を人類史の中で考えてみますと、個体生命の時間的な限界を意識化した人間個体がこの事実をどのように処理するかに悩むことがこの時代に始まり今に続いているように思います。この2500年の期間には、しかし、生物に固有の「子孫を残し、他と共生する性質」は、絶対的な基盤であったにもかかわらず、人間個体には意識的な共有事項なっていませんでした。人間個体は、「他の生物との共生関係によって生きることができている、だからこそ、子孫を残せる」という生物学的な事実は、科学によってすでに明確になってはいますが、人類すべてに意識的に共有されてはいないのです。
 グレタ・トゥーンベリの「政治家が経済発展を重視し、次世代の環境破綻の回避を軽んじる」との怒りが多くの人に関心を持たれるのは、個体生命の延命に貢献する医学に比べて、生態系との共生によって成立している人類の延命に対して、各人間個体が意識的になれないことへの、漠然とした不安が、科学的な知識に裏付けられて現実化しているからだと思います。科学で明らかにされてはきたけれども、自明の事実として共有されるには至っていない過度期だと言えるかも知れません。
 軸の時代に確立した宗教は、個人が個体死による限界を意識することを対象に、このように考えるべきだ、と教えていて、これは現在もそのまま続いています。地球の歴史という科学から、個体と同様、人類全体は他の生物との共生によって支えられることがなくなって、いずれ絶滅することもあり得ると考えられます。生物進化を学ぶなら、絶滅まではゆかないまでも、少なくとも、現在のような地球全体でのメジャーな活動を人類が維持できることはないだろう、という推測はできます。どうやれば、この共生関係を延命できるのか、科学的知見は未熟ですが、科学における重要な課題になるだろうと思います。

 結論を言います。個体生命が限界があることが意識されているからこそ、延命の意義が共有されます。例えば、禁煙の意義が共有され、劇的に、喫煙者が減少する、効果が得られます。他方、他の生物との共生によって人類が子孫を残し長く生き続けられること、これに限界があることが意識されていないので、人類延命に貢献する対策が効果を現さないのです。
 よくよく考えて欲しいのですが、個人の個体生命はどんなに延命に努力しても、いつ何が起こって死んでしまうかわかりません。なのに、なぜ延命に努力できるのでしょうか。禁煙のような努力が延命に貢献することが自明の科学的客観的事実と意識しているからではないでしょうか。生物のひとつとしての人類のひとりが、とつぜん現れた殺害の危害に対してとっさに防御するのとは全く違い、禁煙と延命の関係を客観的に評価して頭で判断しているのです。
 わたしたちは、軸の時代に個体死の限界を客観的意識として共有できるようになって以来の一時点に生きているのですが、類としての人類絶滅の限界を意識共有できるには至っていません。だから、意識を持つ人間にとって、生物一般にみられる、個体生命維持、子孫を残すことで達成される種としての人類の維持、この2つの原理は、別々の問題として、意識されていることが問題なのです。環境問題は後者に属していますから、この2種類の原理があることの社会的意味を、たとえば大学教育によって、若い人に強制的に教える必要があると思います。

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