首のすげかえによる支持率の劇的回復

 1年前、モリカケサクラカワイを引き起こし、国会での118回に及ぶ虚偽発言をした安倍首相が病気と称して退陣しましたが、自民党は、安倍氏への批判訴追を避けるために菅官房長官を首相に据えました。この首のすげかえで74%もの国民が彼を支持する結果が生じました。今回菅氏がコロナ対策失敗で退陣に追い込まれましたが、国会討議も拒否して彼を擁護し続けた自民党は首のすげ替えに成功しました。なので、直後の総選挙では新首相の高い支持率を背景に、政権が維持されそうだと、メディアで推測されています。
 さて、国民を、何とか平穏な生活を維持できる層と貧困・病気のためなどで切羽詰まった状況に追い込まれている層に分けると、前者は「今の生活が維持できること」を前提に「できればこうであったらいいなという欲求が満たされる」ことを願うので、今の生活を悪化させるようなことには反対しますが、さらに欲求を追求する政策には賛成します。しかし、切羽詰まった状況にはないので、政争をひとつの興味深い話題として捉えてしまい、「菅氏はひどかったけど新首相のお手並み拝見。もしかしたら欲求を満たすことをやってくれるかも」という感じになりがちです。だから、こういった層では、もし菅氏が首相を続けていた場合よりも、自民党に投票する人の数が多くなるのではないか、と私は推測します。一方、切羽詰まっている後者は、「その苦境が政治によって改善できる」と考える人と「政治が変化しても苦境は変わらない」と考える人に分かれます。改善できると思う人は野党に投票するでしょうが、苦境はどうせ変わらないと思う人は、投票所に足を運ぶ気力もなく棄権する可能性が高いように思われます。
 政治が、あれほど行政を私物化しても、コロナ禍が始まって1年半も医療体制をさせずに患者を在宅放置しても、多くの国民は政争を話のタネにしかしないし、本当に 切羽詰まっている国民はあきらめてしまう、どちらも政治に期待しないので首のすげかえが功を奏して自民党政治が続く、という構造が、戦後70年を経て完成してしまったと受け止めざるを得ません。

 さて、このように情勢を整理したとき、日本の将来がまったく見えない、国際的地位が圧倒的に低下してしまった、と考える一部の国民は、「民意が低すぎる」、「国民を目覚めさせて牽引しないとどうにもならない」と考えがちです。でも、歴史は「虐げられた国民を救うには、理論で武装した前衛が国民を教育して革命を起こす」ことが、独裁政権を生み出すことに終わった、と教えています。 この行き詰まりは突破できるのでしょうか。独裁にならないで、切羽詰まった立場の人を改善できる政治はどのようにしたら可能なのでしょうか。

 この難しさの原因は、「人間個体の生命が死亡によって終わることは、ほぼすべての国民に共有されているのに、類としての人間が絶滅によって終わることが共有されていない」ことと関係があると、私は思っています。とっぴな考えだと自分でも思うので、例を挙げて考えてみましょう。50年ほど前は、大人の男性はほぼ喫煙しており、山崎豊子の「白い巨塔」のテレビ版(田宮二郎主演)を鑑賞すると、病院の自室で医師が一服するようすが頻繁に出てきます。この半世紀でなぜそういうことがなくなったのでしょうか。病院や列車内が禁煙にして強制的にたばこを止めさせたのでしょうか。そうではないです。たいていの場合、個人が健康を保って死亡を先延ばしにするため、積極的に禁煙を選んだのです。禁煙による延命は、個人にとって「政争の話のタネ」ではない切羽詰まった問題になったなのです。昔は、若死にが多かったので、「健康に過度に留意しても死ぬときは死ぬ」と思いがちだったのですが、医療技術が進歩して、「禁煙に切り替えたらかなり長く生きられそうだ」という発想に、「強制されることなく自然に」切り替わっていったのです。
 先に、切羽詰まっていない国民は、「今の生活が維持できること」を前提に「できればこうであったらいいなという欲求が満たされる」ことを願い、さらに欲求を追求する政策には賛成する、ことを述べました。この層では、 「今の生活が維持できること」 には魅力がなく、「さらに欲求を追求する」ことを政治に期待します。でも欲求を追求することで発生する問題は意識されません。ひとつは、その結果、切羽詰まった人がさらに窮地に陥って個体生命を維持できないことです。もうひとつは、自然資源や地球環境に限りがあって、欲求追求が次世代の平穏な生活を妨げることです。頭では理解できても積極的にそれを実感として感じることがないのです。だからこそ、いわゆる知識人が 「国民を目覚めさせて牽引しないとどうにもならない」と思うわけです。しかし、独裁国家にならないためには、禁煙を選ぶように、 「強勢されることなく自然に」 、「さらに欲求を追求する」 ことを抑制し、「今の生活が維持できること」を重視するように、切り替わらなければなりません。そんな自然な切り替わりに実現性があるのでしょうか。

 「医療技術が進歩したので、禁煙に切り替えたらかなり長く生きられそうだ」という点にヒントがありそうです。科学の進歩は、「さらに欲求を追求する」構造をしっかり下支えしてきました。資本主義経済が科学の進歩によって回っていることは明らかでしょう。例えば、科学がリニアモーターカーを発明したからこそ、 リニア新幹線が計画されました。リニア新幹線が何の欲求を成就させるために建設されるのか、正直、私にはよくわからないですが、そういう多くの個人の欲求がなかったら建設されないでしょう。でも、自然科学は、地球が有限であることをも、理論・実験・現場調査を組み合わせることで明らかにしてきました。社会科学は、グループAの欲求増進がグループBの存続を危機に陥れる関係性を明らかにしていると言えるでしょう。ですから、大学などで、自然科学・社会科学のこうした知見を共有し、互いに議論を深めてゆくように教育されることが、科学の役割を、「個人的欲求を増進すること」から「類としての人類の絶滅を延命すること」に切り替えてゆくことの第一歩として重要だと思います。
 政争・選挙・政権交代といった話に戻りますと、選挙を基礎とする民主主義は、こうした科学や教育のシステムと連携してゆかないと衆愚政治に陥りやすいということが言えると思います。欲求増進を控えながら平穏な生活を維持する、と言うことは、個人にとって「何としてでも避けたい」と言うような難しいことではないはずです。でも、欲求増進を追求し、切羽詰まった状況や次世代の平穏な生活を圧迫することが、選挙を通じて衆愚政治を作り出しているように思われます。そこに切り込まないと、「首のすげかえで政権支持率がぱーんと跳ね上がる」という今の政治状況はいつまでも続くのではないでしょうか。

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