● 2020年8月22日:公務員としての義務を果たして欲しい

 公務員を自殺に追い込んだ森友学園での公文書改竄、加計学園の獣医学部新設の無理押し、溝手顕正氏への個人的遺恨に基づく河井杏里氏への高額選挙資金の供与など、安倍晋三氏の国家私物化は状況証拠の面からは目に余るところに達している。すべての違法行為は安倍氏の意思があるからこそ発生したものであり、あえてこれを否定するに足る根拠を安倍氏は一切示してはいない。しかし、問題は、これらの実行自体は手下官僚の忖度によるため、想定無罪を前提とする刑事裁判での安倍氏本人の刑事犯罪の立証はむずかしいことにあり、安倍氏の暴挙は刑法上の建前に守られているのだ。ただし、桜を見る会の前夜祭における政治資金規正法違反は、安倍氏個人の議員としての選挙にかかわる違法行為であり、他の違法行為とは異なる面がある。ホテルニューオータニへの強制捜査による領収書解析などで刑事訴追は容易であって、この捜査は国民に責務を負う検察庁の当然の義務である。検察庁は、ただ弱い者いじめをするだけで、権力に近い強い者にはお目こぼしする組織だとまでは、日本の世論が後退しているわけではないだろう。

 一方、国会においては、新型コロナの国難に対して憲法に基づく国会開催も与党が拒否しているが、野党もこの暴挙に対して開催まで絶対に退かないとまでの迫力とねばりが認められない。例えば、午後に会見を約束したとして午後6時になっても与党が「今はその時期ではない」「そのうち開く」など、憲法に違反する不当な解答した場合、約束通りの終了を絶対に了承すべきではない。約束は絶対のものではなく事態の重要性に依存して判断すべきである。夜中まででも翌日になっても、憲法の大義に基づき追求すべきである。用を足す場合には逃げないように付き添いを便所に同行させればよい。逃げられては大義が立たない。それが身体をはって国民に背く不当を追求するべき議員としての義務である。それによって仮に警察に拘束されたとしても、排除した警察が不当であるとの立場で闘うべき、そういう行動を国民に委託されているのである。

 今からでも遅くない。検察は安倍氏周辺の刑事訴追を、国会議員は審議の早期開催を徹底的に要求し、職責を果たしてほしい。

● 2020年4月26日  日常性の欲求と危機における対策

わたしたちは、日常生活において、その個人ごとに多様な欲求を持っていて、「あれもしたいがこれもしたい、でもお金がない、またやってもむずかしいからやれない」という悩みを持つ。こうした悩みは、経済的に余裕のある場合もない場合も抱くものであって、どれを優先すべきなどと一概には言えない。けれども、新型コロナウィルスの感染蔓延のような非日常的な危機が訪れると、日常状態への回復という、いわゆるレジリエンスが生物本来の欲求として突如優先性が高くなり、これは誰にも共通に強くはたらく。つね日頃は、さまざまな飽くなき欲求が並列して(例えば、リニア新幹線でちょとでも早く移動することで経済効果が生まれるとか、ロボットに掃除してもらって楽をするとか、見栄えのいい車を買ってドライブを楽しむなどの個別欲求、あるいは、延命長寿、家内安全、商売繁盛などという漠然とした欲求)、なにを優先すべきなのかが見えにくい。だが、非常事態においては、危機からの脱出への貢献を優先すべきだということが理解しやすくなる。今回の新型コロナウィルスにおいては、症状の出ない人から感染した人が唐突に発症して死亡する傾向が見られ、こうした経過をたどって死亡する人を減らすことを回避する手段が社会の構成員すべてに求められるという、際だった特徴がある。そのため、何をすべきかの優先性の認識が社会全体でとくに共有されやすい。

 しかし、危機は他にいくつも存在する。豪雨、地震、火山噴火などの地球活動による自然災害、人間対人間が殺戮し合う戦争、無機物と生物とから成る地球資源の人間による利用が拡大して発生する気候変動などの環境問題や原発事故を引き起こしかねないエネルギー問題は、それぞれに抱える難課題は異なるとはいえ、すべて深刻な危機である。こうした危機が今回のウィルス感染と異なるのは、「ただちに社会全体で回避すべき」という優先性がすべての人に共有されにくいことである。しかし、これらの危機がウィルス感染に比べて決して「軽い問題」とは言えない。危機の時間スケールが慢性的であるため,ウィルス感染による急性危機よりも切実性がうすくなる外観に惑わされやすいだけである.

 ウィルス感染の場合、社会的な対策の成功と失敗が短期的で容易に見分けられる。人間の個体は免疫のメカニズムに基づくレジリエンスをもつがゆえに他の細菌・ウィルス等の生命体との競争に打ち克って生存を続けるが、長くても生誕からほぼ100年で、そのレジリエンス機能が限界に達して死亡する。この人間と生命体との生存競争関係の中で、新型コロナウィルスはレジリエンスの限界への到達時間を早める強力な能力を獲得している。社会的な対策は、この点への抵抗、すなわち、相互作用による限界到達時間をできるだけ延ばせるようにすることに焦点を絞るほかはないし、医療機関での工夫など、可能な対策が特定されやすい。結果的に対策の成否もわかりやすいわけで、現在、安倍晋三氏が最高責任者である日本政府の行う対策の失敗が日々あらわになっている。

 これに対してその他の危機は、因果関係がずっと複雑で、成否は長い期間経過しないと見えてこない。そのため、日常生活におけるさまざまな飽くなき欲求に対して、危機であることそのものが認識しにくく、意見が多様化し、対策が取りにくい。では、どうしたらいいのか。日常生活における変化を強制するような対策は一般に個人の自由を制限することで非常にむずかしい。新型コロナウィルスの危機ではかなり自制を求めているが、それは、ある程度の期間で元の日常生活に戻れるとの推定が社会全体で共有できるからであろう。他のさまざまな危機に対しては、いつ危機から脱せられるかわからないので、そうはゆかないのである。

 筆者は、こうした多様な危機への対策には、大学などの高等教育で「多様な危機があることを学び、社会的対策を議論し合う」といった、解決の見いだしにくい難題に向き合う抜本的な教育方針が必要だと思う。日本では、「自ら考えることはしないで、周囲がやるのに同調する」伝統が強く、それぞれの危機の特徴を学んだ上で、みずから可能な対策を考えて議論し合うことは、よほど強力に制度化しない限り成り立ちにくい。我々が直面しているさまざまな危機はウィルス危機に比べて、脱出に要する時間がより長いであろうこと、日常生活で抱く飽くなき欲求よりも対策を優先的に行う必要性が社会全体で共有しにくい。しかし、危機を脱出して日常生活に戻る、そうしたレジリエンスの重要性は、すべての危機と共通なのである。したがって、ウィルス危機におけるレジレンスの重要性を教科書として、より複雑で社会全体で共有しにくい他の危機への対策を考えることは可能である。長くかかっても、そうした教育方向の変化を筆者は期待したい。

● 2020年5月22日 報道に楽屋があってはならない

 黒川東京高検検事長が、三密自粛のさなか、賭博罪違反になりかねない賭け麻雀によって辞任した。検察庁法に背く疑いの濃い定年延長を行った安倍政権は総辞職に値する。しかし、ここで問題にするのは、麻雀が産経新聞記者の自宅で朝日新聞社員を含んで行われたことである。政治に対する態度を異にする両新聞の社員と取材相手の黒川氏と親しく密室で過ごすことを繰り返していた。楽屋で仲良しの俳優が舞台でチャンバラをしても芝居だからいいが、報道では許されない。官房長官が東京新聞記者の質問にまともに答えないのに他の記者が厳しく追求しないのも、記者クラブという楽屋があるからだろう。明確に述べるが、貴紙が黒川検事長にまつわる問題に真剣に向かい合っていれば、週刊文春が報道するよりも先に、朝日新聞が報道するはずである。社員個人の失態では決してない。重要なことは、新聞社が「舞台の裏の楽屋」に依存していた社風をいかに改めるかにかかっている。


● 雑誌電子化時代における情報確保と価格交渉

谷誠 :静脩 Vol.42 No.2,2006から引用

交渉における立場

 交渉における立場の重要さの例をまず挙げ させていただく。不動産販売には、建築条件 付き土地というのがある。建築業者が土地を 売る場合に、その業者で家を建てることを条 件にする売り方で、売り建て住宅とも呼ばれる。 この売り方は、建て売り住宅と異なり、建設 資金を予め投入して建築した家を売れるまで 汚れないように維持する必要がないという、 業者にとって大きなメリットがある。また、 購入者にとっても、家をある程度自由設計で きる点はメリットである。問題は、土地購入 契約を行うと、住宅建築に関して競争見積も りをとることができなくなるため、建築業者 の立場が独占的で強いものになる点にある。 そのため、トラブルを防ぐため、土地契約が なされた後でも、もし購入者希望の建築設計 ができない場合には、業者は契約を解除して 無利子で契約金を購入者に返済することにな っている。極端に強者と弱者とに分かれてし まう交渉を回避するような配慮がなされてい るわけである。

「知」の独占化における危険性

 われわれのコンピュータ社会は、すでに土 地を購入して家の建築に関して業者と向かい 合っている弱い立場の購入者に似ている。コ ンピュータソフトウェアーは、頼みもしない のに頻繁に改編され購入をあおられる。おせ っかいな機能はやめてくれという、あわれな 年配利用者の声はなかなか届かない。先の建 築条件付き土地と異なり、独占が地球規模に 及んでいるのにもかかわらず、有効なトラブ ル救済策がないように思われる。このような、 すでに独占していることからもたらされる諸 問題のほかに、その独占会社が倒産したり、 その会社の存在している国と国交が断絶した りという異常事態が今世紀中に起こらないと はいえない。そうした場合に、社会の蒙る不 利益は計り知れないものがある。化石燃料に よる世界経済の進展、それが先進国から途上 国へ拡大して人口が増大し、循環資源である はずの水や食料や木材などの持続的供給が逼 迫している。いずれ、循環不能な化石燃料は 絶対的な枯渇に向かうであろう。そこでは必 ず資源奪い合いの国際紛争が発生するであろう。 こうした危機において人間の「知」の営みが 影響を受けることは過去の歴史からみても想 像がつく。しかし、グローバルに「知」のツ ールが独占された体制は、ここ 20 年間くらいに成立してきたものであり、電子化は集中管 理が容易なシステムを作ることでもあり、そ ういった一元管理のしやすい時代に、「知」を いかにして平等に共有してゆけるかは、国の 科学政策の上で非常に大きな課題と考えられる。

学術情報の寡占化

 学術雑誌は、学問グループが同人誌を出す ことによって発達してきたものであろう。お 互いに論文を読み合って水準を向上させてゆく。 この古典的な体制は、経済社会の発展を支え る科学技術に多くの研究費が投下されて爆発 的に論文数が増加し、同好会的なサークルが 学会誌を維持してゆくことがむずかしくなっ たと考えられる。そして、組織的な編集出版 を行う大手商業出版社に出版が集中し、気が 付けば、わずか数社の大手出版社が多くの学 問分野の主要雑誌を出版するようになっていた。 こうした寡占状態の上に、わずかここ数年で、 コンピュータネットワークを利用した電子ジ ャーナルが主要な情報収集手段に変化した。 そのため、いくつもの図書館や研究室の蔵書 として保管され、相互利用サービスによって 提供されてきた雑誌情報が、個人用コンピュ ータから誰もが引き出せる夢のような便宜が 現実になった。その有り難さと引き換えに新 たな問題点が生じてきたのが現在である。

 紙媒体の雑誌の利用であれば、研究室で購 入していた雑誌の値段が上昇した場合、その 雑誌の購入を続ける負担と購入を停止して相 互利用サービスを頼る不利益は、その研究室 で容易に天秤にかけられる。この判断は雑誌 価格上昇にブレーキとして働いてきたと考え られる。ところが電子ジャーナルになると、 非常に魅力的な電子ジャーナルアクセスと面 倒な相互利用サービスの便宜の差が非常に大 きいのにかかわらず、購読停止判断が一研究 室を超えて大学全体での出版社との値段交渉 と密接に関係する。まして、出版社がその独 占的体制を背景に全雑誌を大学内で自由に閲 覧できる契約が有利なように価格システムを 誘導すると、購読継続と停止の判断は大学に とって事実上不可能に等しくなる。電子集中 的管理は、ボタンひとつで数百の雑誌をその 大学のすべてのコンピュータからアクセスで きないようにすることを保証する。出版社に とって可能なこの選択に対抗する手段を大学 は持たないのである。出版社にとっては、数 多くの顧客の気まぐれによる雑誌販売部数の 変動リスクを回避し、非常に優位な立場で大 学など少数の大きな顧客と値段交渉ができる システムが完成したということができる。大 学などの雑誌購入機関は、弱い立場に追い込 められていることを認識せざるを得ない。

 現実には、大学担当者は懸命に値段交渉を 行っており、出版社も国際的水準の「知」を 護る自負を持っているので、平時には、落ち 着くところの価格に落ち着くわけであるが、 対抗手段がないことを前提にした交渉が苦し いことには間違いがないし、研究費が電子ジ ャーナル負担金で圧迫されることも確かである。 また、それに加え、国際紛争等の非常時には 「知」の確保そのものが厳しくなることが危惧 される。そうした中で、電子社会の「知」を 保護する制度の確立に向けた、国レベル、国 際レベルにおける基本的な議論が迫られてい るといえよう。

● 2020年3月30日  先の大戦とウィルス蔓延

新型コロナウィルス問題の本質は、地球上で共存している人間とウィルスという二種の生物の間の普遍的な生存競争として現れたもので、一定の人間側の被害は避けられない。われわれはこの厳然たる事実を認め、被害を少なくすることを優先することが重要である。だから、今後の対策では、この基本を政権担当者と国民が共有することが不可欠だ。80年前の第二次世界大戦中を顧みると、日本に限らず多くの国で、自国・周辺国の国民のいのちを救うことよりも、あえて大量虐殺まで行って政権の生き残りを優先させた不幸な歴史があった。こうした非常時に政権の行った過ちとそれを許した国民の無念さについて、日頃から教育や政治活動を通じて学んでいるならば、現在の非常時に具体的対策として何を優先すべきか、これはおのずから確定してくるだろう。例えば、医療崩壊の防止や現金の至急給付に比べれば、オリンピック開催などはごく些細な課題でしかない。そうした優先性の判断が現時点で共有できるかどうか、今、問われている。

● 2020年2月7日 朝日新聞 朝刊 声欄「桜」問題検察は強制捜査を

安倍晋三首相主催の「桜を見る会」に追及が続いている。会の前日に都内で開かれた首相の後援会主催の夕食会については、政治資金収支報告書に記載がない。衆院予算委員会で、首相はどうにも理解しがたい答弁をした。

 夕食会会場のホテルと契約を交わしたのは後援会ではなく、契約者の主体は800人の参加者個人という。こんな理由では、政治資金規正法に違反した疑いが極めて濃いと私は考える。

 核心をかわす首相の答弁は「うそ」だと国民の多くは感じているだろうが、国会議論は所定の時間で終了する。真摯な議論が当然なのに、その前提を破綻させることで首相は逃げている。

 検察は、安倍首相が国民と行政に及ぼした損害を重く認識し、首相の関連政治団体などを強制捜査するべきだ。だが、安倍政権との距離が近いとされる東京高検検事長の異例の定年延長が先日閣議決定された。検察トップの検事総長に就く可能性が残ることを憂慮するが、検察の気概を私は信じたい。

● 2019年12月23日  1円切手から消費増税を考える

先日帰宅すると、郵便箱にゴムバンドでくくられた2枚の紙がはいっていた。その1枚には、郵便料金に不足があり、受け取るなら1円を払え、受け取らず返却も可能だが開封しない場合に限る、と書いてある。心を込めた礼状であったのでとても返却はできず、前島密の切手を貼ってポストに投函した。だが、開封しなくても読めるはがきのために1円を払いに行く暇のない人もあるだろう。また、うっかりミスは全国で多数あって、相当手間がかかるだろうが、消費税だから日本郵便の収入にはならない。そう考えていると、店舗内外で飲食する税率が異なるためにベンチを撤去したスーパーのことを思い出した。こうした面倒や不満を背景に納入される増税は、文書の改竄や早期廃棄による証拠隠滅に熱心な人物を長にいただく政府に納入される。腹が立って、ますます財布のひもも締めてしまう。消費増税はいったい何をねらって行われたのだろうか。

● 2019年12月10日 行政に対する信頼性の回復に向けて

「桜を見る会」において選挙区の有権者や友人を優先的に招待しながらその名簿を廃棄した一連の事態は、森友・加計問題とともに、行政が国民のためではなく、政権に近いお仲間の私的利益をかなえるために行われているのではないか、という疑いを濃くさせている。それゆえ、税制や国防や公共事業などすべての施策について公私混同を疑わざるを得ない。昨年・今年と続いた水害への対策を例に挙げよう。行政は水害の減災を目的としているのは言うまでもない。しかし、洪水時の河川流量が堤防を越えても決壊しないような堤防強化とダムの新設とでは、どちらの減災効果が大きいか、科学的に検討して、流域住民と十分議論するような真摯な調整が最低限必要である。それにかかわる現場の公務員は「予算が限られている中、国民のためになんとかかしたい」との真心を持っているはずである。しかし、お仲間の利益を優先する現政権の実績をみたとき、こうした真心は押しつぶされているのではないだろうか。もとより、行政施策は100%正しいというわけにはゆかない難しさがある。だからこそ、文書によって施策内容を国民に公表しなければならないわけで、その原点に行政が速やかに立ち戻ることを、心から期待したい。● 2019年12月3日 障害のある方への配慮

 安倍首相は、12月2日の参院本会議で、「桜を見る会」への招待者名簿の廃棄において、大型シュレッダーの予約と作業の間に時間が空いた理由について、「シュレッダーの空き状況や、担当の障害者雇用の短時間勤務職員の勤務時間等との調整を行った結果」であると述べた。答弁には証拠が必要なはずであるが、作業職員がどのような障害があってその結果どのような調整を行ったかは、それこそ個人情報にかかわり、重要書類でさえ廃棄を急ぐ内閣府が証拠を示せるはずはない。それゆえ、この答弁の最大の問題は、証拠隠滅の疑いのある文書廃棄の案件に対して、健常者ではなく障害者に作業をさせためだったという、再び証拠の出せない点に、その根拠を公式に持って行った首相の非情にある。障害があっても職務に努力している方々がどんな気持ちを持たれるのか、首相に反省を求めても無駄であろうが、この答弁が障害者雇用促進法の根本的な趣旨に反している点は指摘しておくべきであろう。

● 2019年10月21日 ダムと緑のダムの大雨時における効果の比較

 台風19号の大雨に対しては、ダムの貯水が満杯になると、上流から流入するのと同じだけの流量を下流に放流する緊急放流の操作が行われ、ピーク流量を低くするというダム機能にも限界があることが、誰の目にも明らかになった。他方、緑のダムについては、貯留効果が中小規模での雨に対して有効だとしても、今回のような大雨においては効果がないという俗説もみられる。森林水文学の観点から私見を述べたい。

 俗説によると、大雨時には土壌層内に貯留できる雨水が満杯になり、その後新しく降った雨水は浸透できずに地表面を速やかに川へ流れ出るため、土壌層の貯留効果がなくなるとされている。しかし、斜面での流出機構に関する研究によると、大雨の場合でも、土壌層内に一時的に発生する地下水面よりも上の地表面側に、土壌のすきまが水で完全には飽和していない部分が残される。流量ピークを低下させる緑のダムの貯留効果は、その不飽和土壌における水分量の時間変化によってもたらされる(谷:水文・水資源学会誌、2018。WEBで参照可能)。地下水面が地表面に達するのは水源山地の一部だけであり、大部分では土壌層が不飽和のまま残され、貯留効果は維持される。自然物である森林斜面は、雨が大きくなるほど貯留量が増加してゆくので、人工物であるダムのような満杯による限界には達しないのである。

ただし、土壌層の貯留効果が維持されても、その山地の一部の斜面では土壌層の崩壊が発生する場合があるし、崩壊が発生しなくても、大量の水が川へ流入する。緑のダム機能というのは、降雨の時間変化がそのまま川の流出の時間変化にならず、ならされるというだけのことだと考えるべきである。したがって、山地に豊富な森林があっても、上流にダムが造られていても、水害・土砂害は発生するわけで、いずれの効果も過信してはならない。同時に、森林伐採後の裸地化は土壌層の厚さ減少や物理性変化をもたらし、大雨時の貯留効果を低下させることにも注意したい。現在きちんと発揮されている緑のダムの効果を決して過小評価してはならず、持続的な森林管理によって今後も斜面土壌の保全に努めてゆくことが望まれる。

● 2019年10月19日 水害の減災に必要な哲学

台風19号によって発生したような広域水害は、今後ますます頻発するだろう。なぜなら、温暖化によって雨の規模が拡大しているほか、樹木を伐採して植林を放棄する事例が全国に広がり、水源山地の森林保水力低下も危惧されるからである。国は、こうした流量増加を招く要因への対策は治水とは別の話だとして、氾濫せずに流せる流量を大きくするためのダム・堤防工事に専念してきた。だが、温暖化抑制や持続的林業をめざす長期構想、過疎と過密の対立する流域土地利用の見直し、流域住民との協働による既存の治水設備の有効活用、災害避難設備の改善や充実など、流域全体における多角的な対策こそ、緊急課題なのである。顧みると、1997年の河川法改正に携わった河川官僚は、川の治水と流域社会の諸問題の調整の必要性を真摯に受け止めていた。しかし、川の中に治水を限定する縦割り行政が維持されたため、川以外の空間はダムで貯水池として転用する以外は治水対象にはならない。結果的に、ダムが偏重されてしまい、河川法改正の理念に反して皮肉にも対立が固定化されて現在に至っている。だが、川の中の治水と流域計画の調整こそが、減災への近道である。今回の大災害は、治水を含む様々な対策を統合する流域計画における「哲学」を、わが国の行政に強く要求しているのではないだろうか。

● 2019年8月12日 戦争被害を受けた国内外の方々の思いに、せめて応えてほしい

 米国がアフリカから奴隷を調達した歴史、スペインが中南米の文明を破壊した歴史などを顧みると、欧米諸国の人々によって日常生活を奪われたアフリカや中南米の人々の無念さは想像を絶するものがある。20世紀において、大日本帝国は沖縄を含む国内やアジアの住民を虐殺して、この悲惨な歴史に1ページを付け加えた。戦後はこれを反省して平和の維持を模索することで始まったはずである。こうした加害をもたらした戦争を推進した帝国の指導者はすでに死んでしまった。したがって、日本を代表する政府は、ナチズムを生み出したドイツと同様、国内・アジア両方に暮らす方々に対して、繰り返し、声明、教育、支援などあらゆる場において、明確に過去の加害責任を明確に伝えることがこそが、親密な国際交流において、最低限必要である。しかし、安倍首相をはじめ現在の国家指導者は明らかにその責務を果たしていない。

 海外への不適切な対応は国内にも同様な非情な態度として反映されている。身近なところでは、原爆の平和記念式典において、被爆地の市長や被爆者代表の方が核兵器の廃絶や2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の批准を要望しているのに、首相がこれを断固拒否していることは、悲惨な過去を受け止めていないことを、あらためて明確にするものである。昭和天皇は、国体保持を願って自らの加害責任を公にはできない立場に追い込まれ、米国の属国になることで天皇制が維持される体制を導いたが、その苦渋にして忸怩たる思いを引き継いだ上皇は、慰霊の旅によって、何とか戦後の日本のアジアにおける微妙な立ち位置の瓦解を防ぐよう努力してきた。この上皇の活動は、大日本帝国にどうやっても償いきれない罪があることが前提になっていること、これは強調しなければならない。一方、天皇とは異なり政治的活動を職務とする首相は、大日本帝国が日本人とアジア諸国の国民に対して加害を与えたことの贖罪の気持ちを明確にしていないし、その戦争時の経過の分析に基づいて原爆投下が再び起こらないようにする努力も行ってはいない。戦争被害を受けた国内外の高齢者は、こうした現実を見て絶望的な思いに陥っておられると拝察する。政府が学校で戦争の悲惨さと残虐さを教えないように指導している現状があるのだが、逆に、国民ひとりひとりがその歴史をまず学ぶべきである。この現状を憂えている国民も多いはずで、反政府運動がすべて弾圧される事態が再び訪れる、その前に、何らかの抵抗運動を行うことが必要であろう。

● 2019年5月18日 国有林の伐採・植林の民間業者委託の方針に反対する

国有林野管理経営法改正案が衆院農林水産委員会で可決され、国有林の伐採と植林を民間業者に任せる計画が進んでいる、だが、この法案は深刻な山地荒廃を招くもので反対したい。日本の人工林の半分以上は、1960年頃に植林したもので収穫期を迎えており、将来にこれをどう活かすかは大きな課題である。南九州の民有林などでは積極的な伐採が進んでいるが、将来の林業経営に絶望して植林されず、将来を見捨てられた山が広がっている。こうした山地放棄の問題に加え、地球に残された原生林減少問題が深刻になっている現状を受け止めるならば、森林を環境重視の自然林と持続的な木材利用を行う人工林とに誘導してゆくことが国策として急務だと考える。例えば、小規模の森林伐採を繰り返して植林・育林することにより、極端に偏った人工林の年齢をならして持続的に収穫可能な人工林を創る計画は、優先的に行うべき森林施策である。森林経営の意欲が失われ、相続によって所有者もわかりにくくなっている中山間地の現状をふまえたとき、林野庁は、広い面積の国有林を経営する立場から、長期森林経営計画の模範を示すべきだろう。今回の法案はその目標に照らして、速やかに廃案にすべきである。● 2018年9月25日 公共施設設計で重視すべきはデザインよりも安全

 今年は災害が多発したが、ここでは台風21号の被害を対象に、施設設計について考えてみたい。

 まず、高潮による浸水やタンカー衝突による連絡橋破損のあった関西空港をとりあげる。この空港は、今回の台風とほぼ経路を同じくする、室戸・第2室戸台風を経験した海洋上にあるが、内陸に比べて気象環境の厳しい人工島であることは、十分考慮されていたのか、疑問をもつ。というのは、空港を利用する際、ターミナルビルと鉄道駅の連絡通路の両側に壁がなく、風雨が吹き抜ける構造が気になっていたからである。設計時の自然に対する甘い判断が、今回の台風での非常に大きな被害につながったのではないだろうか。

 他方、JR京都駅では、同じ台風時に、吹き抜け天井から4枚のガラス板が中央改札口付近に30mも落下した。列車が運休していたため最悪の事態は避けられたが、この駅舎には改札口の左右両側に巨大な開口部があり、東西方向に風雨が吹き抜ける設計になっている。建築基準は満たしていたとしても、台風や地震時に、高いガラス天井や大開口部が大勢の乗客を保護する目的に反すること、これは設計時に容易に予想できるはずである。ガラスを使った高い天井が、点検や補修を難しくする点も気にかかる。

 自然災害の際には、市民がこうした公共の建物に一時的に避難する事態も十分あり得る。デザインを優先した危険な設計はぜひやめてほしい。公共物の設計を市民が厳しく監視するような制度を早急に制定することが必要だろう。

● 2018年8月18日 月面探査計画を機会に科学予算配分の優先性を考える

 一部報道によると、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、昨年、文科省の委員会で提起した日本人宇宙飛行士による月面探査を実行するそうである。財政悪化、人口減少、災害激化に直面する現在、無謀な計画というほかはない。この例を基に、ここでは限られた研究予算の配分法について考えたい。科学が優先的に取り組むべきは、夢のような未来をめざすことでなく、まさに社会が直面している難題の解決である。例えば、福島第一発電所の事故が発生した以上、圧力容器から溶け落ちた核燃料などの処理は、最優先の研究課題といわざるを得ない。

 しかし、個々の科学者は自らの研究への予算獲得に熱心であっても、高木仁三郎がかつて強調していたように、研究内容と社会との関係には興味を持ちにくい。JAXAの場合なら原発処理問題には関心がないわけである。ゆえに予算の重点配分が課題になるのだが、文科系分野や基礎科学分野を軽視する日本政府の現状では、夢を求める計画には経済効果が高いとして、環境問題などの難題を放置してしまう危険性が高い。むしろ、平等に予算配分せよというほうが無難なのかもしれない。科学予算配分を誰がどう決めるのか、今こそ議論すべきであろう。

● 2018年7月25日 ダムや堤防の限界を強調することのむずかしさ

 堤防・ダムは減災に有効ではある。しかし、西日本豪雨により、それらの防災設備を増強して防げる範囲はごく限られているのに、住民にそれが伝わっていなかった点が明らかになった。原因として、防災設備を増強するとき、「これで災害がなくなる」との期待が生じやすく、「やはり災害は防げないので避難が重要」という警告は共有されにくい心理を強調したい。

 自治体の多くの技術者は避難の意義を日頃住民に説得しているが、国土強靱化への予算獲得に熱心な官庁、それを票に結びつけたい政治家が、防災設備の限界を強調するインセンティブをもつことは構造的にあり得ない。気候変動による豪雨拡大に対して、根本原因である人間活動の抑制には目をつぶり、さらなる防災設備増強をねらう焼け太りも問題である。既存の防災設備を点検し、土地利用計画を見直す総合的な流域対策が必要だが、まずは「自然災害は決して防げない」認識を共有することが先ではなかろうか。
● 2018年6月25日 トップの責任回避がもつ効果

 加計・森友問題は、「政策が首相の意図する方向に進んでおり、意図と政策の因果関係に関する証拠が得られているのに、行政組織は首相の責任回避を目標として行動する」ことを示した。だが、この論理は今に始まったことではなく、先の大戦末期においても、「戦争を始めた政府は、悲惨な玉砕や本土空襲があっても敗戦を決断せず、責任が天皇に及ぶことを回避するように努力した」歴史があり、その結果、国体が維持された。

 トップに責任を取らせないことは有効な戦略なのだ。トップの交代のためには、それによって事態の改善が期待できる必要があるが、政策が失敗続きでも現在の状況が続いたほうがいい、むしろこの意識が国民に共有されているのではないだろうか。しかし、無責任構造が加計・森友を超えてより重大な政策に及べば、今後、大戦同様の悲惨な破綻をもたらす可能性も否定できない。そうならないためには、改善を議論するために、まずトップが責任を取る、今はそういう時点ではないだろうか。

● みんなの広場 官房長官は発言訂正と謝罪を 毎日新聞朝刊2017年4月3日
多数の国家公務員は国民に奉仕する心意気に基づき仕事に取り組んでいる。だが、その努力を萎えさせる発言が国会でなされた。
 学校法人・森友学園の小学校用地に関して、首相の妻・安倍昭恵氏付の官邸職員が財務省に照会し、学園理事長側に回答したファクスの文面に「当方としても 見守りたい」とあり、「当方」とは誰を指すのかと野党側が質問。菅義偉官房長官は官邸職員と答弁したのである。この職員個人が上司の業務命令によらず勝手 に業務を遂行したかのように受け止めざるを得ない。
 しかし、ファクスには財務省の室長から回答を得たことや昭恵氏に報告したことが書かれており、明らかに業務命令に基づく一連の公務が記されている。官房 長官という立場にありながら、公務に対する誤りを述べており、真摯(しんし)に働く公務員に対する侮辱といえる。私も大学教員を長く務めてきたが、これでは意欲ある学生を安心して国家公務員に送り出せない。発言の訂正と謝罪を求めたい。

●(私の視点)防災対策 森林の再生と切り離せぬ、朝日新聞朝刊2014年12月13日
 地震や豪雨、噴火などの自然災害が相次いでおり、防災設備の充実が求められている。しかし、その効果には限界があり、災害を皆無にすることはできない。例えば、極端な豪雨で起こる大規模な山地災害をすべて防災設備で抑えることなど不可能である。8月に発生した広島の土砂災害の悲劇は宅地造成に対する配慮の必要性を痛感させたが、減災について、森林の機能を含め、広く考え直してみることが必要ではないか。豪雨時に被災地に流出してきた樹木の散乱をみると、災害の原因が森林にあるかのような錯覚に陥る。だが、ダムなどの設備は森林の保水力を前提に防災効果を発揮しており、その保水力は樹木の根によって土壌が急斜面上につなぎとめられることによってこそ、長く維持できる。防災の長期基盤として、環境に変動があっても自らを回復する森林生態系のレジリエンス機能が欠かせないのである。
 かつて燃料や肥料を里山に依存していた時代には花崗岩(かこうがん)地質の山にはげ山が広がっていた。そこでは、風化した岩盤の表面がはがれてできる土粒子がすぐに雨で流され、甚大な土砂災害が毎年発生した。人間による森林利用と災害発生は強く結びついているのだ。
 最近では、苗木がすべてシカに食べられて森林が再生しないことが問題になっている。植生のない状態が続く一方、土壌を支えていた樹木の根が腐ってゆくため土壌が流され、はげ山に戻ってしまう。防災の鍵は、伐採後の森林再生の成否にあるといえよう。
 森林を切らずに木材や紙などを輸入すれば、今度はその伐採地域の環境劣化が生じる。とくに、シベリアなど大陸奥地では、島国日本とは違い、海からではなく森林から蒸発した大量の水蒸気が雨や雪になって降り、水循環が森林自身によって支えられている。広域伐採はこの大陸での水のリサイクルを破壊し、森林が再生不可能な乾燥気候に導くから、むしろ、温暖湿潤な気候と肥沃(ひよく)な土壌に恵まれた日本における持続的林業の再生が地球にとって優しいのだ。
 地域でも地球全体でも、防災や環境保全と森林資源利用の施策を切り離さず統合的に扱うことが重要である。豊かな自然を農林業に利用して人口を分散させ、都市での巨大災害を避けること、これは今年成立した水循環基本法の理念にもかなっている。
 もしも、防災と生物資源の基盤である森林を活用せずに捨て置き、防災設備には覆われても人が住まない「強靱(きょうじん)な過疎地」を子や孫に引き継ぐならば、これほど日本の自然条件に背く不幸な選択はないだろう。