事業計画と市民の不安

 毎日新聞の「加藤陽子の近代史の扉」に、牧野邦昭慶応大教授の「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)を引用して、「損失」を前にしたときの人間の行動の非合理性が書かれています。要するに、「かなりの確率で失敗するという選択肢(1)」と「確率は少ないが幸運によって成功するかもしれない選択肢(2)」があった場合、合理的でないのにかかわらず(2)を選びやすい傾向があるとのことです。損失に直面するのが個人であれば(1)を選択する人もいくらかいるでしょうが、国の省庁や自治体、会社などの組織が何かの事業を計画するとした場合、同調性の強い日本人の多くは「組織の多数の意見に反対して立場を失う」ことを恐れて空気を読むので、ほぼ確実に(2)が選ばれることになるだろうと思われます。
 しかし、「何らかの事業」は組織の内部の成功・失敗を招くだけではなく、外側の社会にも影響を及ぼす可能性があり、市民の中には組織の判断を喜ぶ人あるでしょうが、それを嫌う人も生じてしまいます。そう考えると、新型コロナ禍の五輪はこうした事業の典型的な例と言えるでしょう。政府・与党・関係省庁を含む多数の五輪関連組織の中で、よっぽどの変わり者以外は「五輪は感染拡大の恐れが強いので中止すべし」とは言いません。でも、事業に直接関わりの無い多くの市民は、世論調査をみても、明らかに何らかの不安を感じる人が多数です。先の大戦でも、戦争継続は「むちゃくちゃでござりまする」と心配する市民が多かったにもかかわらず、帝国政府という組織は国内国外の多数の命を奪い「えらいことにとなりにけり」となりましたが(すみません。花菱アチャコという昔の芸人の口癖です)、全く同じ構造がずっと続いていることが、コロナ禍によって証明されたわけです。
 この戦争とコロナ禍における選択傾向の共通性は加藤陽子さんの他にも多くの方に指摘されていますが、この頑固で持続性の強い構造が日本を普遍的におおっていることを感じます。どのような事業においても、何らかの損失があり得るわけで、何らかの損失が起こり得るから何もしない、という選択は、個人はともかく、組織が行うことはあり得ないでしょう。では、「どういう損失が予測されたら事業を中止するのか」、これは組織にとって非常に重要で難しいテーマだろうと思います。例えば、「事業計画検討委員会」を立ち上げたとしても、組織内の委員会であれば、事業内容の微修正は可能でも事業を中止するのは、上に述べた同調性からみて、組織トップの「鶴の一声」くらいしか考えにくいです。ですから、組織以外の影響を受ける可能性のある市民の意見が事業の実施・中止を決める上で重要だと考えられます。ここで問題にしたいのは「市民の事業選択へのかわりかた」です。
 再び、コロナ禍と五輪の例がわかりやすいので取りあげます。五輪関係組織は五輪開催に何らかの意義があるとの前提で立ち上げられていますから、「損失があり得るとしても対策によって五輪を成功裏に終了させる」と言う議論の外側に出ることはできません。組織の空気は、「失敗する可能性が高くても幸運によって成功することに賭ける」ですから、中止などあり得ないわけです。ところが五輪関係組織以外の市民の多くは、感染可能性に関する「強い不安」をもって中止が望ましいと考えています。その感染不安の程度は五輪開催の意義よりも大きいと信じているわけですが、その確信を合理的に説明できるかどうかはは別問題だと言わざるを得ません。
 組織が事業として行うことは、科学的・経営的など観点からみて合理性が必ずしも十分でなくても、組織のトップが決断すれば可能です。しかし、その事業にマイナスの影響を受ける可能性のある組織外の市民が組織に事業を中止させるためには、組織が事業を行うことによって未来に生じ得る結果について、それが合理性をもつことを説明しなくてはなりません。目的を掲げて事業を実施しようとしている組織が事業を止める中止する決断をさせるに足る合理性を掲げる、というのは非常にハードルの高い課題です。
 こうした組織と組織外の人々の事業に対する関係は、法的な利害対立として整理すれば、裁判で白黒を争う道が開かれています。どちらの主張が法的に合理性があるかが裁判によって判断されその結論に従うことでの決着が付くわけです。組織外の市民が勝つ場合もみられます。しかし、私がここで強調したいことは、「組織が行う事業」そのものの市民による監視が行われてこなかった、そういう日本の欠点です。なぜ戦争開始・継続をチェックできなかったのでしょうか。敗戦前であっても市民の力がまったくゼロでだったわけでないはずです。五輪誘致自体に問題がなかったのかでしょうか。もし新型コロナ禍がなかったら五輪は成功裏に終了した・・・本当でしょうか。誘致賄賂疑惑・エンブレム撤回変更・国立競技場設計迷走・膨大な経費・中継上の理由の酷暑開催・女性蔑視での会長交代・首相のええかっこのための短期間延期など、なぜこんなに問題ばかり続いたのかは、誘致自体に問題があった可能性が高いと思うのです。一度組織が立ち上げられ事業を開始してしまうと、必ずしも合理性が十分に担保できなくても、市民が不安をもっても、組織にはそうはさせない空気が充満します。ですが、結果的に問題を起こしてしまう事業を開始させてしまう「自然の流れ」があるところが気になるのです。日本には、つねに流れている空気をさらに深いところで支えているような「メタ空気」がある・・・それはどのようなものなのでしょうか。
 これについては、さしあたり、次のように私は考えます。「メタ空気」なるものは、「絶対に最終的には破綻しないという、何ら根拠のない楽観性によって、これまで行われていた事業の延長上に事業を進めても、確かに不安はあるとしてもより良い方向に流れてゆく」という無意識的な確信の共有幻想だと思います。「空気を読むことが重要で逆らわない」のは、「空気に逆らってでも主張しないとすべてが破綻する」とは誰も考えないからではないでしょうか。「これまでよりも何となく未来は改良されてゆくはず」この根拠のない安心感が馬鹿げた事業をも押し切るのです。実際には状況が確実に悪化するのですが、何度失敗しても前よりは良くなるとの強固で根拠のないメタ空気がこの確率の高い悪化予想を退けます。でなければ、次世代に負担しか与えないリニア新幹線など、臆面もなく継続できるはずはありません。

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