陛下の憂慮が現実になって

 新聞を見ると、菅首相がみずからの生き残りを第一に、彼が8年支えた安倍という人物の断罪を回避することを第二に、「私利私欲だけ」で頑張っていていることは、伝わってきます。6月の宮内庁超過会見での天皇陛下の憂慮表明は、首相の上に位置すると国民がほぼ共通して信じている天皇が、何を重視しているかをまさしく示し真下。これに対して、首相と内閣関係者の「宮内庁長官の考えを述べただけ」と言う、誰が考えてもうそとしか思えない見解は、極端に言えば、彼らが「朝敵」であることをみずから表明したものだと思います。戦前、二・二六事件の反乱将校への同情に決して流されず「朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん」と述べた昭和天皇の激怒は、憲法によって政治発言の許されていない今の天皇には絶対できません。できませんが、国体を背負う天皇が行う行為としての位置づけとしては客観的に類似していて、よくよく考えられた伏線だと言わざるを得ません。野党に政権が移るか、自民党政治が続くか、わかりませんが、天皇はこうした短期の「移ろい」を超越した「千代に八千代にさざれ石のいわほとなりて苔の蒸すまで」との永続的立ち位置から、国民を憂慮し秩序を維持することを明確に表明したと言えるでしょう。その位置づけを新聞がなぜそのように「明示的に」解説しないのか理解しにくいです。しかし、この見識を持つ昭和天皇をいただいていた戦前政治も敗戦に至る過程をたどりました。同じ見識を引き継ぐ陛下の「憂慮」に従いながら、責任を取らない政治を、首相の人物を取り替えて、やっぱりまた、維持するのでしょうか。そうではない、「足を知る」慎ましい生活を尊重し、苦境にある人を助けるために悪戦苦闘できるようなまともな政治を構築できるでしょうか。今はそういう時期に来ていると思われます。新聞の二面以降やBSテレビなどではがんばっているようにも思うのですが、「ガス抜き」の感が強いです。新聞の一面、テレビの報道番組、すべて問題意識をもっていれば、改善は可能なのだと思いたいです。

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