大澤・木村「むずかしい天皇制」を読んで新型コロナ禍の現在を考える

 中国では、皇帝が天命を受けたことで正当性が確立しつつ、それを失うことで交代せざるを得ない王朝史があって、その一方庶民はその正当性とは関わりなく日常生活を維持してきた歴史は、現在の毛沢東から習近平に続くもののように思います。これは中国共産党の強権支配の交代を予見させるものです。しかし、日本の場合は、政治権力の交代にかかわらず天皇が存続してきた歴史があります。庶民が天皇を意識しなかった江戸時代、兵隊として天皇の赤子として侵略の手先にさせられた戦中、さまざまな体制を通じて、正当性や失敗にかかわらずに、1500年程度続いてきました。私はそこに天皇制のむずかしさを感じてきましたが、それがかなり「陽に」議論されたことに強い印象を受けました。
 欧州のキリスト教信者であれば、生きる意味を神の子の教えの中に見いだす構造は、細かい解釈において相対立した議論があるにもかかわらず、口に出して主張できる信念であって、日本での「空気を読んで忖度し、口に出して語り合わない」のとは違う、これは大澤氏が「まえがき」で書いている内容(p7)です。
 私は、現在の中国や北朝鮮のことを、欧州と日本の間に在るのではないか、と思っています。というのは、彼らも日本と同様、「空気を読んで忖度し、口に出して語り合わない」傾向があると思います。でも、王朝が交代してきた中国・朝鮮では、面従腹背が目立ち、毛沢東・金日成・習近平・金正恩に対して心から感謝・尊敬・敬愛の気持ちをもつことはないでしょう。天命を失って彼らが崩壊・革命などが容易に想定できます。中国の高度経済成長・ウィグルや香港の弾圧強化はその予兆とみることができるのではないでしょうか。
 やや脱線しましたが、本書の議論では、追い詰められた連合赤軍が共有していた「共産主義の地平」を例に挙げ、「シニフィエなきシニフィアン(意味される内容がない記号としての言葉)」が人を強く拘束することを指摘し、「天皇」や「国体」や「三種の神器」はそういう「シニフィエなきシニフィアン」であること(p308)が重要なポイントだと書かれています。また、「天皇制は、空気があるという空気を作っている。いわば『メタ空気』ですね」(p332)との表現がありますが、これも同じように重要な点です。
 日本の社会が同調圧力が強くて空気を読むことで個人・家族・社会が交流していることは、誰もが認める常識でしょう。でも、個人が私権を絶対譲らない特性は、欧州・中国・日本、どこの人間にも共通している気がします。と言うのは、日本では、相続における骨肉の争い、あるいは、多数の基地を抱える沖縄や過酷事故を起こしかねない原発立地地区の不利益に対する別の地域の住民に対する支援・共感の無さは、欧州・中国に比べても際だっていると思うからです。
 しかし、個々人が私権だけを主張していては社会が成り立ちませんから、個々人が共有して畏怖するシニフィアンは不可欠で、そのシニフィアンは個々人の経済的・政治的・宗教的な意見を超えて共有される必要があります。この私権の主張とシニフィアンの共有の具体的ありかたは、それぞれの風土によって異なるわけで、日本は、忖度すべきシニフィアンをさらに超えたメタシニフィアンとして天皇がある、との本書の指摘に、同意したいと思います。
 さて、先の戦争も末期1945年になると、支配層の各個人であっても、敗戦しか選択肢がないと考えるようになりました。しかし、シニフィアンはあくまでも「一億玉砕」でしたから、「敗戦やむなし」と会議で発言する個人は空気を読まないことで自己の私権を奪われる(周りの会議メンバーから非国民と攻撃されて委員から外されることで私権を失う)ので、誰も「敗戦やむなし」とは主張しない空気が横溢するわけです。最終的に、リアリスティックな政治家であった昭和天皇が(帝国憲法で「非国民」とは位置づけうようがない立場ですから)メタシニフィアンとして玉砕シニフィアンを転換させるはたらきをしたことを、本書の討論内容から読み取れます。
 歴史的には、その後、マッカーサーの大統領への出世意欲がかかわって天皇存続・憲法九条のセットで流れてゆくわけですが、この経過が日本国民にもたらしたのは、悲惨な敗戦にかかわらず天皇への敬愛の情が継続したことであり、「空気を読んで忖度し、口に出して語り合わない」シニフィアンを超えた天皇というメタシニフィアンの持続であったと考えられます。このあたりは、本書では、国体護持は議論されたが、シニフィアンとしての平和主義でも民主主義という用語が何を意味するか、そのシニフィエはいったい何なのか、という議論の欠如の戦後史として注目されています(p308以降)。
 本書における以上の議論をふまえて、2021年7月11日現在での日本の問題を考えてみたいと思います。というのは、本書の議論が新型コロナ禍が起こってから為されたようであるのに、それに関する言及がないことが気になったのです。安倍前首相が五輪1年延期にこだわって新型コロナに対する政策を怠った結果、五輪開催によるコロナ禍が拡大してしまう、これは、国民個人だけではなく、政権与党にさえも不安視されるようになってきたと思います。しかし、シニフィアンとしての空気は、いまだ五輪開催による国民感動を通じた総選挙勝利にあって、与党メンバーは空気に逆らえません。しかし、五輪開催という大失敗が推測され、与党の代議士は「どうやってその責任から逃れて総選挙で当選できるか」という私権優先に必死になっていると思います。
 その流れを読んで、現実に失敗が明々白々になったとした場合、国民の心の底に共有されるメタシニフィアンとしての「天皇」が出番となる可能性がある、これが去る6月24日の西村宮内庁長官が会見で述べた「国民の間で不安の声があるなかで、ご自身が名誉総裁をおつとめになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないかご懸念されている、ご心配であると拝察をいたします」の発言の意味だと思われます。
 私は、戦後生まれの天皇だけの憂慮だけではなく、敗戦を経験した上皇の強い意思が明確に表現されていると考えます。この憂慮発言は、天皇への感謝を引き起こし、「国内の感染拡大をしないばかりか海外からの日本に対する信用を失墜させるものだ」との国民の政権の失敗に対する怒りを結果的に緩和する効果をもつと思います。シニフィアンを担っていた菅首相は、絞首刑になった戦犯の役割を演じて退陣するけれども、メタシニフィアンの天皇に支えられて、次の類似したシニフィアンを担う人物が首相になって、政権が継続するとの予想ができます。
 おそらく「むずかしい天皇制」で議論されていることは、シニフィアンとしての政権と一見対立するやにみえるメタシニフィアンとしての天皇は、シニフィアンの交代にかかわらず、ずっと続いてゆくこと、それはめでたいようにも見えるが、問題が起こっても決して解決・改善方向には誘導できないという、日本に固有のむずかしい課題を意味しているということだと思います。

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