天災と人災

 自然災害をもたらす、地震などの地殻変動・大雨など気象現象は地球活動であって自然現象だから避けることができないので、災害があってもこれらの自然現象は天災としてあきらめの要因になる。しかし、現実の災害は、人間が住んでいるから起こるわけで社会現象と絡むので、人災とみなされる場合もあり、その場合には災害を起こす原因を産み出した人や法人の責任が問われる。なので河川氾濫害などの災害が起こるたびに、天災で責任がないのか、人災で責任があるのかが問題になってきた。
 人間の健康に関しても、病気にかかることや寿命が尽きて死ぬことは自然現象だが、喫煙・飲酒などでの病気や死亡はその個人の生活習慣の責任が問われる場合もあるだろう。だが、個人の健康においても責任のありやなしやは容易に決められることではなく、その個人の家族や社会との関係全体との複雑な物質的・心理的な要因が病気や死亡とかかわっているはずである。
 災害に関しては、個人の健康と比べてさらに広範な自然・社会の相互作用が関係しているはずで、天災か人災かを区別するのはきわめてむずかしい。災害にかかわる裁判は責任があるかないかを判断するために行われるのだから、むずかしくても責任があるかないかを決めざるを得ない。しかし、裁判でどう決着がついたかということと、災害に対してどう対応してゆくかということはまた別のことである。私が留意したいことは、「裁判を含む議論では、白黒付けることで自己満足ないしは精神的な安心を得るように気持ちが向かいやすい」ということである。この傾向は、「その天災か人災かの白黒を付けた先に存在するであろう、よりむずかしい問題への検討を回避する」結果をもたらしてしまう。これは非常に危険なポイントなのである。
 このきわめてむずかしい「自然と社会との相互作用の中で自然災害への今後の対応を検討する」ことをこれまで避けてきたから、災害が起こっては対策を行い、また災害が繰り返されるという、「被災と対策の無限ループ」から抜け出せなかったのではないだろうか。科学は、「この無限ループをどうしたら断てるか」に強い関心を持って研究すべきだし、行政・政治はその科学的知見を土台に、無限ループを断つ方策を実行するようにしなければならない。その場合、社会の利害関係者との話し合いによる合意形成が不可欠なのは言うまでもない。

熱海の場合のような源頭部に盛り土がなくても土石流は発生し、扇状地の渓流沿いは大きな被害を受けるので、より厳しい開発規制が必要である(2014年の広島の例:アジア航測による写真を引用)


 抽象的な話になってしまったが、今回の熱海の土石流災害は、逢初川源流部の産廃土砂盛り土のあった付近のかなり深い崩壊をきかっけにして起こったようであり、同じ降雨条件と考えら得る周辺では土石流が発生しなかったことから、これまでの考え方では、地盤改変・盛り土による発生であって人災としての要素が強い、との判断になるだろう。しかしもし、「それで白黒が付いて終わり」であれば、せっかく明瞭に映像が残っている土石流の恐ろしさの重要な意味は過小評価されるように思われる。
 渓流源頭部の崩壊発生地付近には建物・道路も多く存在していることから、なぜこのような山地に開発が行われたのかが大問題である。というのは、山地が住宅・道路に開発されると、森林のときには土壌内に浸透していた雨水が地表面流となって盛り土のある渓流源頭部に流れ込み、より崩壊が発生しやすくなるからである。被害を受けた場所についていえば、なぜ、逢初川が何万年にわたって繰り返し発生した土石流で運んできた土砂をまき散らしてできた扇状地の上に、河道を極端に狭い溝に押し込めて建物や道路を密集させたのか、そもそも、土地利用計画はこれまでいったいどうなっていて、今後どう変えてゆく必要があるのか、自然と社会との相互作用を踏まえて検討すべき課題が山積みなのである。
 責任問題とは別に、こうした抜本的課題に科学と行政と住民がどうかかわってゆくのか、これが重要である。津波がわかりやすいので例示すると、「津波の高さが10mだったので、対策として11mの堤防を築いて一件落着」となったとする。被害を受けた町での産業や住み方を今後どうするかが最重要課題なのに、さすがにこれで話が終わりとはいえないだろう。国の治水対策では、「過去に起こった流量データを解析し、氾濫せずに流せる流量の大きさをまず定め、それを基準にダムや堤防や浚渫などの河川改良工事を行う」と定められている。だが、計画された流量を超えるような大雨があれば氾濫が起こり、水害がなくなるわけではない。だから、水害を防ぐ治水対策は、この手法をひとつの材料として、多角的に検討する必要がある。この治水問題については、拙稿「流域治水における改良主義」を参照していただきたいが、要は、天災か人災かは、将来の住み方を抜本的に検討する議論の入り口でしかない、ということである。
 すでに災害に対して危険な区域が数多く開発されてしまっているから、その危険地区に住んでおられる方々に経費を援助して移転していただくようにお願いすることはなかなか難しいだろう。しかし、人口縮小社会に向かいつつある現在、過疎地、放棄された田畑、空き家などが増加しているし、人口密集地での地震・大河川氾濫・火山噴火など巨大災害も危惧されるなか、いったいどうしたらより良い社会が築けるのか、天災か人災かの判断を超えた科学的かつ多面的な検討が、いま、真に求められている・・・はずなのだが、現実には、将来の世代に重い負担を掛けるようなリニア新幹線建設や原発継続でさえも中止させる流れを作り出せていない。よって、今後も経済成長を夢想して開発を規制しないような時代錯誤の政策がとり続けられ、無限ループが続いてゆく可能性がある。どこからこれが変化するきっかけを見いだせるのだろうか。迂遠にみえるが、議論を交わすことから始めるしかないだろう。

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