豪雨災害における限界規模を考える

 新型コロナ危機の中、大雨で被害を受けられた方、避難されている方が多くおられます。心からお見舞い申し上げます。
 さて、線状降水帯がキーワードになっていますが、気象学の観測が進歩して明らかになってきたことで、最近の温暖化によって新たに出現したわけはありません。感染症蔓延は人類とともに起こってきたけれども、地球規模の広域移動が為されるようになっての質的・量的な被害が増加してきたのと似て、水循環や地殻変動という地球固有の活動の問題と、化石燃料排出などの人間活動拡大によって豪雨規模の増大が起こってきた問題を整理して対策をたててゆくべきだと、私は思っています。
 日本は地震が多いことからわかるように、地殻変動がはげしく、山岳が隆起しそれを豪雨が削って複雑な山地地形ができています。村や都市は、その削られた土砂が流水で運ばれ堆積した平地(山より平らという意味でかなり急傾斜のところが多いです)のうえに作られています。地球固有の活動が根本原因なので、すべての場所が災害の危険性があると言っても過言ではありません。豪雨の頻度が最近高まっているわけですが、豪雨そのものは昔から発生してきました。森林でおおわれた山腹斜面がくずれるのは、数百年に一度くらいですから、たいてい、おじいさんの代に遡っても被災経験がないのが普通です。頻繁に起こるように見えるとすれば、日本の山にくずれる斜面が無数にあるからで、ひとつの斜面はめったにくずれないのです。他方、森林のない「はげ山」斜面では、 岩盤が風化してできる土を根っこつなぎとめるはたらきがありませんので、毎年侵食が起こり、土砂が下流に流されてきます。森林でおおわれた斜面では、生態系は植物の根っこで土を固定してみずから地盤を作り出します。なので、あたかも土砂が出てこないような錯覚を与えるのですが、「地盤が動く時間スケールが毎年でなく森林生態系によって数百年に長くなる」、これが科学的知見です。「健全な森林があっても、数百年に一度は斜面はくずれる」と認識しておいたほうがいいと思います。

2014年の広島市の土石流災害
(アジア航測の写真を引用)

 ところで、小河川が山から出てきてすぐの扇状地は土石流で土砂が運ばれてきてきた場所なので、災害発生頻度が高くなり、百年に一度くらいは土砂が出てきます。小河川の奥には急斜面が多数あって、どれかひとつがくずれると土石流となる可能性が高いからです。河川は斜面から運ばれてきた土砂を流路のまわりに堆積させますが、堆積部分の標高が少し高くなるので、次回の大雨の時は低い場所に流れ、流路があちらこちらに変化します。出雲神話の八岐大蛇(やまたのおろち)は頭と尾が8つずつあって暴れ、斐伊川の蛇行・氾濫の荒々しさをよく表現しています。山沿いの村の住宅の多くは川沿いにはなく、裏山に沿って並んでいて危ないのになぜ?と思ますが、これは裏山くずれの被害が起こったとしても数百年に一度なので、川沿いよりは安全だと昔から認識されていたからだと推測されます。古くからの家は土石流が出る沢の出口から少し離れた被災頻度の低い場所に陣取っていて、新しい家は比較的危ないところに建つ傾向があることを、卓越した地質学者の小出博は指摘しています
 ですから、川のそばは、堤防がなければ頻繁に災害を受ける場所です。山沿いの急勾配の小河川では土砂害(土砂で埋まる場合と地面が削られる両方の災害が起こります)、大河川では流水が堤防を越えさらに堤防決壊を起こすことでの水害が発生します。こうした水害を防ぐには堤防を築くことが必要ですが、江戸時代は氾濫が起こるたびに堤防の修繕が繰り返されていました。けれども数年に一度氾濫が起こるようでは、水田に利用できたとしても住宅開発ができませんから、堤防を嵩上げする改良対策が為されてきました。ここから、改良と開発のいたちごっこが始まります。地球活動によって必然的に発生する豪雨が「災害」として認識されるには、こうした土地利用という人間の社会活動が大きく関係するわけです。

2018年7月の岡山県倉敷市小田川の水害
(時事通信社の写真を引用)

 もう少し具体的に、現在国によって進められている改良対策の中身をみてみましょう。豪雨の発生頻度はその規模が大きいほど低くなりますが、この降雨規模なら災害を起こさないがこれを超える降雨規模なら災害が起きる、という「限界規模」があるはずです。水文学では、降雨規模と山くずれ発生の関係、降雨規模と河川最大流量の関係が研究されています。限界規模を大きくしたら、これまで災害が発生していた降雨規模で災害が発生しないですみます。ダムや遊水池は、限界規模を大きくするためにこそ設置されるわけです。
 私が強調したいのは、この降雨の限界規模を想定して防災対策が行われていることを、関係者が十分に認識して欲しいということです。何が問題なのでしょうか。限界規模を大きくしてもこれを超える降雨があれば災害が発生します。限界規模を大きくすると、より多くの予算がかかります。貯水池が必要とされる場合は住民の移転もお願いしなければなりません。また水源山地は1960年頃に植えたスギやヒノキが収穫期になり現に伐採されているのですが、その後植林やシカ食害対策が為されず放置されてしまうところが多く(南九州では顕著です)、持続的な林業が危ぶまれるとともに、森林土壌の保水力の維持が可能か(別項参照)という問題が生じます(なお、私は「規模の大きな降雨時の洪水ピーク流量が湿潤土壌の保水力で低くなる」根拠について英後論文和文解説を発表しています)。また、温暖化で豪雨が以前より頻繁に起こるようになってきたので、降雨規模そのものをどれだけ上げるのが妥当かを過去のデータから見いだしにくいです。そこで、国も、堤防やダムや砂防ダムなどの防災設備だけで災害を無くすことはむずかしいと認識し、災害対策に流域の住民や法人に協力してもらう流域治水への切り替えが重視されるようになりました。しかし、降雨の限界規模を大きくすることが水害対策(河川法に基づく洪水防御計画:講義PPT参照 )の基本であることには変わりがなく、さまざまな災害防止対策を展開するのと同時に、堤防嵩上げやダム設置においては、これが根拠となっています。

 私は、「限界規模を大きくする」ことにこだわらず、いちど、さまざまな対策を検討し直す必要があると提案しています。その議論には、住民を含む多数の利害関係者が参加するべきで、当然時間がかかります。しかし、水源山地や河川の現状を点検して弱点をみつけ、堤防補強などに限られた予算を優先的配分して速やかに対策工事をおこなうことは可能だと思います。水害・土砂害とは別ですが、新型コロナ対策においては、ただちにするべき緊急事態の対策と、医療体制の改善などある程度時間をかけて行う抜本的対策、その両方が必要になりました。しかし、自粛をお願いするばかりで、緊急的・抜本的な対策はいずれも行われず、今や入院すべき多くの方々が自宅療養を強いられています。こうしたことから考えても、地球活動や生物という人間活動の周りでおこっている、右図のような自然現象に対して、どのように智惠をしぼって社会が対応するか、これは、単独分野の科学や単独の省庁が担当して対策をたてる、という範囲を超えていることがわかります。地球温暖化もそうですよね。正しい方法はないと言っても過言ではなく、だからこそ皆で智惠を絞る必要があるのです。
 「降雨の限界規模を基礎とした対策」は、降雨規模を上げる改良のための防災工事をおこなうことによって現在起こる災害を起こらないようにする計画であり、至極もっともに見えます。しかし、「改良工事を行っても、降雨規模が限界規模を上回ればやはり災害が発生する」という基本的な問題について十分検討されてはいません。逆に、災害がなくなるかのような錯覚を与え、ダムの能力を過信するなどの問題を起こす可能性があります。確かに、すでにできているインフラの効果を維持することは大切ですから、堤防やダムの修繕による強度維持や土砂堆積で減少するダム貯水池の貯水量を確保するなど、必要な現状維持工事を行うのは当然のことでしょう。しかし、「温暖化で豪雨規模が拡大するからさらにダムを増やす」、「少しでも東京に早く行きたいので新幹線と高速道路をどんどん作る」、こうしたこれまでのインフラ整備方針を立ち止まって検討せず、今後もそのまま進めることが妥当なのかどうか、あらゆる科学分野の叡智を結集して検討することが必要だと思います。こうしたインフラ整備方針は、地球環境を劣化させ、温暖化を加速し、ぐるっと回って水害を増やす豪雨規模の拡大につながるおそれが高いです。この「壮大ないたちごっこ」はどうしたら改善可能なのでしょうか。豊かな自然に恵まれた国土を強靱なインフラに満ちた過疎地に誘導してはならないのです。やや専門的なつっこんだ議論は別の論考を参照いただきたいのですが、どうしたらいいのかを検討することが、今、科学にも行政にも、社会全体に求められるのだと思います。

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