引用:谷誠:学問の自由と環境劣化の関係を考える. 縮小社会6: 32-29, 2022
(発行者:一般社団法人 縮小社会研究会)
要旨:学問発展は資本制社会に組み込まれ、人間の欲求を満たす一方、環境劣化をもたらしている。社会を持続させるための資本制終焉が議論されているが、大衆の欲求を強制的に抑制することは人権に反し、困難である。実現可能な道は、学問が環境劣化を加速する可能性を考慮しつつ、大学生が自らの研究テーマを自発的に選択することではないだろうか。
1 はじめに
2020年10月1日、日本学術会議からの新規会員推薦者105名のうち6名の任命を拒否するという、菅義偉前首相の新しい政権による思いもかけない人事介入事件が発生した。「学問の自由」への明確な侵害なのだが、岸田文雄首相は、2021年12月末時点で、この違法行為を撤回して全員の任命を回復させてはいない。このままでは、学術会議側の要求、学者の抗議にもかかわらず、任命せずに済ますおそれがある。
さて、ここで注意しなければならないのは、「学問の自由」について、「何でも興味に基づいて研究を進めることができる」というニュアンスが世間的には色濃いことである。学者の中にも、社会との関係において、学問があたかも独立しているかのような考えの人も多いのではないか。そうすると、特権をもつものへの世間のやっかみが学者に向けられ、「維新」と名乗る政党のキャッチフレーズである「身を切る改革」のやり玉に挙げられてしまいかねない。「研究によって給料をもらっている学者が好き勝手なことをしていることに制約をかけるのは当然で、選挙で選ばれた首相が学者の言うままに会員に任用するのはおかしい」というような意見が多数を占め、首相の違法行為がうやむやにされてしまう。
日本の民衆は、水戸黄門のストーリー、つまり、日頃の不満をトップ権力者に訴えて中間の小役人を権威の象徴である印籠をかざしてこらしめてもらうストーリーが大好きである。学問や表現の自由を権力者と対立する緊張関係の中から苦労して獲得した経験のない日本においては、民衆はやっかみを学者に向けやすい。また、学者もまた、学問の自由を権力者との緊張関係において守る、という気概をもつことなしに、当たり前の権利としか認識できていない場合も多い。したがって、政権はこうした民衆の世論を利用して、学者集団を国民一般から分断しようとしている。
前置きが長くなってしまったが、本論考では、今回の人事介入事件で問題となった「学問の自由」について、現代の地球環境の劣化問題との関係から考察を加えたい。
2 環境劣化時代の学問と社会の関係
「学問の自由」を論じるとき問題になるのは、「学問は社会から独立している」という間違った認識である。学問が社会に何の影響も及ぼさないということはあり得ない。また、社会に影響を及ぼす以上、社会からのフィードバックとして学問に影響が生じる。少なくとも、学者の研究費や給料はその学問が社会に影響を及ぼすから支払われるのだし、その研究費や給料をストップすることでその学問が行いにくくなることで、社会からの影響を受ける。理学や文学などの研究分野は純粋に興味だけによって行われているように見られやすいが、基礎物理学では他の学問分野の研究への応用を通じて、文学では社会の基盤にある「心」の問題を通じて、間接的にせよ、社会に影響を及ぼすといえるだろう。学問は、文筆・音楽・絵画・芸能などの文化一般が愛好家の経済的負担に依存した社会活動として成立するのとは異なって、現代においては、学問が全体として社会との相互依存的な性格を獲得していると、筆者は理解している。
自然科学による技術の発展が著しい現代では、とりわけ学問と社会との相互影響関係は直接的で巨大なものになっている。スウェーデンの若い環境活動家であるグレタ・トゥーンベリは、2019年の国連気候行動サミットでの演説などにおいて、科学で明らかにされた地球環境劣化の危機を政治家が受け止め、経済優先を改めるべきだ、と主張している。ところが、批判される対象は政治家だけではない。学問や学者集団もまた、全体としてみたとき、直面する環境危機を回避することに十分な貢献をしているとは言えない。この事態をなんとか改めることはできないのか、学問総体としてどうしたらいいのか、改める可能性はあるのかというところに、検討するに値する重大な課題があるだろう。
3 資本制に組み入れられた学問
学者は学問の自由によってみずからの研究活動を正当化する傾向が強い。しかし、学者が認識するかどうかにかかわらず、現代の資本制社会においては、その自由のよってきたる背景に剰余価値増殖を宿命的前提とする資本主義が強力にかかわっていると言わざるを得ない。ある学問分野が存立している基盤には、工学・農学・医薬学のような応用科学にみられる直接的な関係ではなくても、理学や文学のような場合であってさえ、すでに述べたとおり社会とはつながっている。それゆえ、社会が資本主義によって回転している以上、学問と資本主義とは強く結びついている。それどころか、学問が基礎分野から応用分野まで分立しているシステムの全体が、資本主義と互いに支え合う関係をもっていると、筆者は考えている。この点についてさらに説明を続けたい。
人間は、無機的自然と生物から成る有機的自然との相互作用によって生き、社会を成立させていること自体は、通歴史的な普遍性をもつだろう(谷、2016)。その歴史において一時代として産み出された資本制社会は、学問の発展、とりわけ応用科学の発展がなければ相対的剰余価値増殖を産み出すことがないので維持できない(柄谷、1990)。つまり、もしも学問発展の成果がまったくないとすれば、人間は現状の道具や手段によってしか自然を利用することができないので、欲求を拡大できずに現状に満足するほかなく、発展がほとんど起こらなくなる。資本制社会においては、そのような定常状態を維持するシステムは決して形成されない(斎藤、2020)。そうではなく、「学問の成果を個別資本が技術・手法として利用して他の資本に対する差額として利潤を先取りするが、学問の成果がすべての資本にゆきわたってしまうとそのうまみがなくなる。そこで、次の新たに発展した学問の成果を利用して相対的な利潤を先取りする・・」こうしたことの繰り返しによる資本の自動回転運動の中に、学問が強固に組み込まれている。このように資本制と学問発展とは強い相互依存の関係を保っている。
ただし、学問発展が資本制だけを支えてきたわけではない。資本制が地球環境の維持にとって不都合であるとの知見もまた、トゥーンベリの先の主張を待つまでもなく、間違いなく学問の成果である。また、医薬学を例にとると、人間個体の病気を癒し延命させる多くの成果を挙げてきており、学問には、相対的剰余価値増殖を産み出すだけではない重要な社会的価値があることは、念のため記述しておきたい。
4 学問の成果の生活者による受容
こうした多様な価値をも産み出すがゆえに、まさしく「学問の自由」は重要なのだ。だが、問題は、「学問の自由が守られたらそれだけいいのか」と問われたときにだったらそれでいいのか、と問うたとき、環境問題の危機に直面している事実から、そうは言えない、というところにあるだろう。しかし、その資本制と学問発展の相互依存から成るシステムを、トゥーンベリの期待する環境危機の改善に貢献するように修正することは、きわめて難しい。なぜなら、学問の自由によって、基礎的学問と応用科学の総合システムによって産み出された果実は、通常「悦んで」生活利便性に貢献するとして生活者個人に受容され(見田、1996)、それが資本主義における相対的剰余価値増殖獲得の自動運動を下から強力に支えているからである。例えばリニア新幹線がいかに環境に負担をかけるにせよ、完成した暁には、好き嫌いにかかわらず生活者としてはそれを利用する日常が到来するに違いない。この例で強調したいのは、JR東海がダイヤ改正(改悪?)によって東海道新幹線からリニアへと乗客を強制的に移すからだけではなく、多くの人々が「自発的に悦んで」リニアを選択するかもしれないという絶望的な予想が否定できないところにある。こうした悲しい人間欲求の特徴があるがゆえに、学問を通じた資本制システムの自動回転運動は、結果的に地球環境劣化を加速させてゆくことにならざるを得ない。
したがって、どこでこの回転運動にブレーキをかけられるかが問題になるだろう。生活者個人に対して、生活利便性を受け入れないように強制することは、ソ連等の社会主義の失敗をかんがみても妥当ではない。究極的には、戦争中の日本や現代の北朝鮮のように、国民に我慢を強いて体制を維持する独裁強権国家に陥りかねない。また、この社会における生活者と学問発展を担う学者がかかわる回転運動において、一方の当事者である学者もまた、「学問の自由の理念の下、興味に基づいて研究すること」によって結果的に環境劣化を招いてしまった悪しき実績がある。そうだとすれば、「学問の自由を守れ!」のかけ声だけでは、環境劣化の抑制という目標への手だてが得られない。これは明らかであろう。
5 資本制の終焉
このように、資本制社会において、相対的剰余価値増殖と学問発展とが親密な相互依存性を保つことで生活利便性が高まる一方、その副作用として環境劣化が進んできたことを認識すると、資本制の終焉によって次の社会を産み出すしか環境問題を改善する手だてがないように考えられる。こうした問題意識は、マルクス以来、多くの識者に共有されてきたといえる(白井、2020)。確かに、「資本制が終わって次の社会が産み出される」という予想は、おそらくいつかは実現されると、筆者は、社会科学の観点からでなく、むしろ自然科学の観点から確実だと予想している。なぜなら、生物は現実に進化してきたのだし、人間社会も封建制から資本制に変化してきたわけだから、さまざまな戦争や巨大災害などの悲惨な事態を経て、資本制とは異なる社会が産み出される可能性は大きいと思う。地球科学研究の成果によれば、人類に特有の発展をもたらした期間は、10万年の氷河期と1万年の間氷期の周期変化の中で、最終の氷河期が終わった後の間氷期に位置づけられる。だから、すでに1万年近く間氷期が経過している現在においては氷河期が再来し、人間社会は地球生態系全体とともに強制的に変化させられ、資本制も運命を共にして終焉にいたることは、待ったなしと言える(加藤、2014)。地球における次の時代は予測しがたいとはいえ、進化の歴史を顧みると、新たな環境に適応した生物の生息する世界が地球上に展開されるに違いないのである(吉川、2014)。ただ、人間活動の拡大による人新世としての温暖化が現在進行中であるので、果たして地球固有の変化として予想される氷河期への移行が現実的に起こるのかどうか、実際のところ不明である。いずれにしても、いつか資本制が維持できなくなるという推測は成り立つと筆者は考えている(谷、2020)。
6 環境劣化時代の学問と社会
しかし、この資本制の終焉を地球活動という人類によっては制御不可能な強大な外力に任せてただ指をくわえて見ているのではなく、資本制と学問発展の相互依存による自動回転運動による環境劣化に対して、何らかの意識的な貢献が可能なのか?というのが今、議論すべき「肝」だと考えられる。そこで、この回転運動の両輪である、生活者の「悦んで学問発展の果実を受け入れる」構造を変化させることと、学問の発展構造を環境劣化の抑制に転換することのどちらが、可能な道かを検討したい。結論から言うと、後者の方がはるかに現実的だと、筆者は考える。
生活者による学問成果の受容も、学者の興味による研究内容選択も、いずれもが人間の飽くなき欲求からもたらされるもので、一種の仮象に過ぎないという言い方はできるように思う。だが、仮象にもきわめて強固で動かしがたいものから比較的ゆるいものまで、ヒエラルキー(階層構造)があるだろう。自己の性同一性とかLGBTなどは、たとい「仮象」だと考えたとしてもその個人にとっては決して動かせないものである。もし、これを変化させたりすると、精神病など深刻な人格損傷を招きかねない(柄谷ら、2019)。そういうヒエラルキーに照らしたとき、学問分野・研究内容の選択は、議論によって変化可能な拘束力の相対的に弱い仮象ではないかと推測される。念のため強調したいのだが、権力者によって強制変更させて良いわけではない。また、一旦仮象が構築されてしまうと、自分の生きがいとなって固定化する。固定化自体が仮象の本質的特徴なので(大井、2009)、これを無理に変化させることは、やはり人格損傷につながるおそれが生じかねない。それでもなおかつ、「学問発展に支えられて資本制社会が自動回転し、その必然的結果として地球環境が劣化してゆくという現代の悪循環」に対して、学問を行う者の哲学・インテリ性を、みずからの意思で自発的に向上させることによってメスを入れてゆく方が、生活者の欲求を強制的に変えるよりは可能性が高く、十分に現実的な考え方だと筆者は考える。
短期の時間スケールにおける具体的戦略としては、大学等の高等教育において、個人が個別の学問活動を開始する時点で、その学問の社会との関わりを学び議論することの必要性を強調したい。おそらく、大学にはいりたてにおける教養課程よりは、むしろ研究室分属直前という時点で、学問と社会の関係性を厳しく問う、というのがベターではないか。これとて、文部科学省によって自由な論議を制限されてきている大学教育改悪に真逆の変革であるため、容易ではないだろう。しかし、地球環境の危機にとっては検討に値するものだと、筆者は信じるものである。環境劣化の改善に向けて生活者の我慢を強制するような乱暴かつ人権無視の手法に比較すれば、論理によって成り立つことが保証されている学問側における現状批判的な議論は可能なはずだからである。こうしてはじめて、「学問の自由」と「環境劣化の問題」とは、何とか折り合いをつける可能性が拓けるのではないだろうか。
引用文献
柄谷行人:マルクス その可能性の中心、講談社、254p、1990。
柄谷行人・見田宗介・大澤真幸:戦後思想の到達点、NHK出版、254P、2019。
加藤典洋:人類が永遠に続くのではないとしたら、新潮社、418p、2014。
見田宗介:現代社会の理論 -情報化・消費者社会の現在と未来、岩波書店、188p、1996。
大井玄:環境世界と自己の系譜、みすず書房、298p、2009。
斎藤幸平:人新世の資本論、集英社、384p、2020。
白井聡:武器としての「資本論」、東洋経済、290、2020。
谷誠:水と土と森の科学、京大出版、243p、2016。
谷誠:現代における科学研究の優先性に関する考察、縮小社会』5、206-268、2020。
吉川浩満:理不尽な進化、朝日出版、422p、2014。