昭和12~30年(1937-55)大戦前後の映像

 亡父 谷武治郎(1917-2003)(ハクラン製薬で緩下剤セチロなどを製造販売)が、大学入学時以降に撮影した9ミリ半映写機による映像を、NHK大阪放送局がビデオ化したものをさらにデジタル化した動画があります。映っている方々が亡くなられているので、少しずつYoutubeにアップしてゆきます。なお、父は生存時に、東京大学に学術資産等アーカイブズポータルとして寄付しているようです(参照)。モノクロで映像が暗くて見えにくく、音声もありません。また、撮影者とその家族親戚に偏ってはいます。しかし、当時の市井の人々のようすが映っている動画は少ないと思います。ご覧いただければ幸いです。谷誠

映像はYoutube にアップしており、各項目の表題(例えば、1. 六甲山の映像)をクリックすると表示されます。

1.六甲山の映像(1937頃)

 1938年7月には、六甲山からの急傾斜渓流から多数の土石流が阪神間を襲った阪神大水害がありましたが、1937年だと推定されます。花崗岩の大崩壊が見えますが(40"頃)、これは以前からあったものだと思われます。戦中に廃止された六甲ロープウェー、戦中に撤去された六甲開祖の碑も映っています。最後の電車は阪急神戸線です。

2.東京大学学生生活など(1937頃)

 東京帝国大学医学部薬学科の石館守三教授の教室で学んだ谷武治郎が撮影した、研究室などの模様が映っています。4’頃からの学生行進は、1937年12月の南京事件時のもので、中国侵略を日本の祝賀行事としていた戦争前夜の時代を示しています。その後、学生の娯楽としての野球、テニス、運動会(イモ食い競争など)薬学会の大会、神宮球場での大学野球のようすが映っています。

3.東京のようす(1937頃)

 最初は、父 武治郎が下宿していた千駄ヶ谷付近の風景です。その後、西郷隆盛像、上野公園、上野動物園、中央線の国電(現在のJRは、国鉄、戦前は省線とも呼ばれていました)、東京駅丸の内、皇居外苑の楠木正成像などが映っています。

4.大家族(1937頃)

 大阪市西成区玉出にあった私の生家における私の生まれる13年ほど前の映像です。敷地内に祖父清一の始めたハクラン製薬工場があり、作業の女性、大屋根(2階の上側の屋根)から伸びたつるべでの井戸水のくみ上げ、洗濯のようすもみられます。最後に映っている鳥は敷地へやって来たものです。1960年頃までは、夕方以降にはフクロウやコウモリがやってきました。
 なお、私的な覚えで恐縮ですが、32":祖父清一と祖母あい、52”:あいの母のりゃう(52”)、57”:清一の次男武治郎(私の父)、2'20":前から4男の弌、3女の佳子、りゃうの孫で武治郎の従妹の文子、2'35":右側が二女の延子です。