次世代への「つけ」を積み重ねてゆく政策

 現代がかかえる次世代へのつけに責任をとらない問題は、バブル期だけではなく、現在、まさに原発、IRカジノ施設、リニア新幹線などで進行中です。日本は極端ですが、日本だけではない世界全体の資本主義社会での問題のうえに、日本の特殊性が重なって生じていると考えるべきだと思います。まず、世界を考えます。

 釈迦、孔子、ユダヤ預言者の現れた紀元前5,6世紀頃、ヤスパースの言う「軸の時代」が起こり、人間の個体死の限界と世界の無限性の対比(むなしさ)が意識され、欲求の無限性と死の限界性の緊張関係についての意識が現在に続いています。アメリカやアフリカの原住民はその軸の時代を持たず、人類と自然とのかかわりの点を相対化するうえで重要な意義があると思うのですが(真木悠介:気流の成る音)、ここでは、アジアヨーロッパを対象として考えたいと思います。
 世界の人口増加率は20世紀後半を頂点として減少し始めており、これは人類の総活動が地球と生態系の相互作用の限界にぶちあたって、地球そのものが、人間に比べ圧倒的に強靭安定であるため、人口減少を強制していると理解できます。人間活動による温暖化が地球活動に影響を与え、200万年程度の期間の10万年氷河期と1万年間氷期のサイクルが変化するのか、再度氷河期に突入するのか、これは予想しにくいと思いますが、そういう、地球と生態系と人間の相互作用の中で人類全体史をみたとき、個体死の限界と地球限界による強制とは大きな意味を持つと考えられます(見田宗介:現代社会はどこに向かうか)。
 ドーキンスに代表される生物学の考え方によれば、遺伝子がみずからに最も近いものを残そうとする利己性に基づいて個体の行動を支配し、結果的に生物が進化してきたようです。ですから、個体は遺伝子のエージェントとして、自己を死なないように守ることと自分の子供を残すこと、このふたつを基礎原理として生きています  人間は言語による抽象化を通じて自己を客観的に認識することができるため、軸の時代にみずからの死が共有認識できるようになり、生きる限られた時間に自己の能力を最大限発揮することで、社会の活動の拡大に貢献してきました。問題は、子供を残すという生物本来の原理が、人間の特徴である抽象化のレベルでは、共有認識されていないことにあると思います。
 生物は遺伝子を子孫に残す利己的な原理に従って、自らを捨ててでも子を守るような個体行動をとり、種を超えた多様性の高い共進化(昆虫と顕花植物の共生など)を遂げてきました。人間もその原理に操られてはいますが、地球限界によって脅かされている現実に直面しているにもかかわらず、いずれ衰退して絶滅に向かう限界性とその回避に対して、どのような作戦がベターなのか、という問題意識を共有認識できてはいません。
 したがって、グレタ・トゥンベリも指摘したように、将来世代の負担を現在に反映させるような判断ができないわけで、これは世界共通の現代の問題です。日本の問題は、この世界共通の問題があるうえに、もうひとつの問題があって、より極端に将来への無責任が大きくなっていると思います。

 日本では、選択に迷って結果責任をとるという欧米の考え方とは違って、立場を守ることが組織のすべてのメンバーに共有されていることがすでに指摘されてきました(安冨歩:生きるために経済学)。組織のトップはとくに明確な意思がないため、無意味な行動が進みやすいのですが、失敗しても責任が問われる危機感がないので、問題が深刻になってもストップが効きません。他の国では、組織のメンバーは方針を選択したトップに従っていても、実は面従腹背で、すきを見て修正を迫りトップを打倒して入れ替わる、そういう闘いがあるのですが、日本は「政局」はあっても、それは組織の為すべき方針の議論ではなく、単なる足の引っ張り合いがあるだけです。おみこしをかついでみんなで奈落に向かいます。
 これは天皇制と結びついていて、明らかに失敗に至るように推移した場合は、その空気を読んだ天皇がメタ空気の役割を果たして失敗を宣言しますが(https://hakulan.com/wp/wp-content/uploads/2022/07/metaairz.pdf参照)、天皇は責任を取る立場にはないことが共有認識されているので、実際に失敗責任のある人も失敗の被害を受けた人もみんなが反省してしまってわけがわからなくなり、再び、無責任体制がよみがえることになると考えらえます。

 ですから、バブル期にしても現在でも、おみこしは奈落に、泥船は沈没に向かっており、安倍元首相が殺害されなければ、政治家はもちろんマスコミも識者も、政権党と日本を食い物にする外国カルトとの同居の問題点を分析できず、子孫に負担をかける政策に疑問持たずに邁進できたのだろうと思います。反省すべきことなのですが、最大の問題はその事実が「ばれた」のに、日本以外の国とは違って、無責任体制が修正されるかが微妙なところにあることだと思います。