郷原信郎弁護士の「『統一教会問題』での“二極化”、加計学園問題の「二の舞」にしてはならない。」を読み、官僚組織の中での選択の難しさについて考えました。
 明らかに責任者の利害にかかわることであっても、それが責任者の指示によるものか部下の忖度によるのか、明白にならなかった事件が、この間何度も起こりました。森友問題・加計問題がその代表ですが、経過が曖昧になった結果、結局誰も責任を取らない不祥事を、繰り返し経験しました。責任者に政治責任をとらせることも、責任者の刑事告発もできないまま、責任追及の機会は残念なことに永久に失われました。この一連の事態を、郷原弁護士は「戦後の政治、社会に纏わりついてきた負の遺産」として捉えておられます。そのとおりでしょうが、この「日本の支配被支配構造」を改める方法の難しさと必要性を感じます。

 さて、2015年に統一教会が名称変更が文部科学省によって認可された問題は、省庁の官僚が、法に照らして妥当とは言えない不当な問題に直面した時の選択の難しさを、非常によく表現していて興味深いところがあります。当時の前川喜平文部科学審議官は、これまでの前例に倣って名称変更認可によって生じる問題の重要性に基づいて生じている宗務課長の懸念を共有しつつ、結果は、下村博文文部科学大臣の指示によったかどうかは微妙な点が残るにしても、すでに統一教会との関係があった大臣の利益に沿った結論に至りました。その責任は法的に文部科学大臣たる下村氏にあり、現在の文部科学省が責任を引き継ぎ、現在の大臣が責任をもつ事案だと思います。科学技術庁出身者が事務次官であったため、事務方の実質的なトップであった前川氏が責任の一端を当然担っていなくてはならないはずです。
 前川氏は、8月11日のTBSゴゴスマで、「教団名称変更阻止にクビを掛けられなかったのは、今思うと意気地無しと言われても仕方がない」と発言しましたが、みずからの行政判断の意思に反する上司の不当な判断を受けるかまたは上司を忖度する立場に直面した時、「辞職覚悟で責任者を部下が説諭するか」あるいは「週刊誌等へ内部告発するか」は、非常に難しいことは明らかです。99.9%は、軋轢を避けて責任者に従うことになるでしょう。前川氏も結果的にそれを選択しました。そして、退職後に告発することをみずから選んでいます。

 宮仕えの立場で不本意な業務命令に従う選択を迫られた場合、通常は上司に従う選択をします。森友事件で自死に追い込まれた原因が、安倍元首相の国会発言にあったことは明白になっていても、自死に追いやった賠償責任を裁判認諾によって認めて多額の賠償金を税金で支払う常識に反する不当な判断を行っても、責任者であった麻生太郎元財務大臣は責任をとらず、事務方で指揮した佐川宣寿元理財局長は、退職後も前川氏と異なって問題点を認めるに至っていません。
 学術会議の任命拒否を思い出すと、杉田官房副長官は105名の推薦者から6名を除いた名簿を作成し、任命権者である菅義偉首相に提出しましたが、責任をとることができない官僚が不正を行って責任者を動かし、責任者が任命拒否の理由も国民と学術会議に説明しない、きわめて不当な結果による異常事態が今も解消されていません。こうした不正を苦々しく思う官僚も多いはずです。しかし、だからと言って、週刊誌への匿名の内部告発はあるのかもしれませんが、法に基づく支配を覆す事態は放置されてきたと思います。

 前川氏は高級官僚であったわけでその告発には重みがあります。非常に稀有な狭いみちを選択したのではないか、と感じます。そう考えると、行政組織の中で、不正をただす法的なシステムが不十分なのではないでしょうか。当然、個々人の性格によって、選択は多様だろうと思います。しかし、「平目官僚」が一方的に当然視され、不当で不正な事態に対する多様な選択が用意されていない現状の制度にも問題があるように思います。どういうシステムが必要なのか検討すべきですし、内部告発や前川氏のように退職後に誠実で重い発言をすることは、とりあえず重要なことだろうと、考えます。