国葬その後を考える
気づかなかった邪教によるマインドコントロール
今回の安倍元首相暗殺事件以降、わずか1か月余の間に、政権党の様々な政策に「信者はただ教祖に盲目的に隷属して貢ぐ」という統一教会のマインドコントロールに親和的な要素があることが露見されてきました。その背景には、大日本帝国が植民地としていた朝鮮の人々を強制的に労働させていた事実を根拠に日本の人々から全財産を巻き上げることを正当化する身勝手な論理がありました。もし、大日本帝国の責任者による朝鮮支配の問題点を日本の人々が総括して学校教育に明確にその結果を取り入れ、日本の政治にその反省点を一貫して反映させていたとしたら、日本と韓国に住む人々の中に、統一教会がはいりこむようなゆがんだ対立関係は生じなかったはずです。日韓の友好的な関係が、東アジアの国際緊張緩和の基幹として機能することは大変重要です。韓国カルトと日本政権党との相互依存関係は、日本の信者家族を直接不幸に陥れただけではなく、政権党と統一教会の癒着を隠蔽することで日本の人々の朝鮮の人々との友好関係を妨げ、多くの深刻な問題を生み出してきたことを指摘すべきです。政権党やそれに近い人々は、韓国の邪教に政策を誘導されながら南北に分断された朝鮮の人々を差別してきたわけで、誠に愚かなことと非難されて当然でしょう。
また、今回の元首相暗殺事件がなければ、私も含め日本の多くの人々は、政権を含む国家全体の乗っ取りを図る邪教の野望を認識することができませんでした。そのことこそ、日本の政治やメディアや国民の感性の劣化を象徴しているわけで、事件後の気づきを容疑者の思う壺とする主張など論外であり、そこまでマインドコントロールされている人がいることが驚きです。
責任を取らない責任者
ここで、表社会と裏社会という関係構造を考えて見ましょう。「お若い方 、渡世いうもんはそんなきれいごとでまわってんのやおまへん。」こうしたせりふが語る「反社会的活動が社会を裏で支えている実態」は、誰でも社会的常識としてうすうす感じているでしょう。そして、会社や役所にはいって「その一端」を経験すると、「ああやっぱり渡世いうもんはおもてだっては言えんもんでささえられてるんやなあ」「えらいさんはええかっこしながら、そのあたりをうまいことどがちゃがやってんねんやろな」という感慨をもち、同僚の間で居酒屋でこそこそ話題にします。けれども、そういうものだと納得するだけで、誰もそれを改めるような活動はしないのが常識です。家族もいるので保身を考えざるを得ません。日本の常識では、責任者が責任をとることは組織に所属していると到底発想できない、そういうふうにできています。実際、組織相互間の軋轢に基づく外圧がない限り、どんな失敗を生じても、責任者が責任をとることはありません。どうしても納得できない構成員は思いが内向して鬱になってしまうしかないわけで、殺害された元首相の発言を原因とするたいへん悲しい残念な赤木俊夫さんの不幸が起こりました。責任者である財務省は徹底してこの誠実な公務員とその妻を、亡くなられて以後も、認諾などで、何度も打ちのめしました。
おそらく、こうした「責任者が責任を取らない認識の共有」がマインドコントロールとして社会全般で機能していたことが、「今回の元首相暗殺がなければ、政権を含む国家全体の乗っ取りを図る邪教の意図が認識できなかった」その根本原因ではないのでしょうか。
世界に広がる邪教の野望
さて、日本で霊感商法や信者献金でも不当に統一教会が得た莫大な資金は、米国における長年の政治家への献金による癒着、米国内のすし屋に鮮魚を提供する会社の半独占、ワシントンタイムズなる保守系新聞の設立など、政治活動と経済活動の両面での展開を支えてきました。加えて、その資金は、八木啓代さんによれば、ウルグァイなどラテンアメリカでの「まるで国をまるごと買い取ろうとでもするかのような」活動展開をもたらしました。こうしたアメリカ大陸での活動は、宗教活動の範囲を明らかに超え、支配者層の少なくとも一部と癒着することで文鮮明教祖の「世界支配」の野望の実現に沿う流れを作ってきたと言えるように思います。
欧米中心の血みどろの歴史で育てられてきた人権・自由の尊重や民主主義を軸とする政治には未熟なところも多く、欧米以外の国での実情に合わない問題点が多くあります。ですが、この流れに沿って、次世代以降の子孫の生活維持を図ることか間違っているわけではないでしょう。しかし、日本の政権は、こうした流れを推進しているようにはみえません。例えば、山本太郎氏が優先している「困難に直面している人を救済する行政の推進のための積極財政」政策に政権は反対し、経済的貧困者からも納税させる消費税を拡大化させてきました。客観的に、文鮮明の世界支配に沿う政策との親和性が高い政権が続いていると言わざるを得ません。
岸田式「決断と実行」の誤算
であれば、日本の政権が韓国の邪教の野望に強く支配されてきた事実が「ばれた」現在、日本の民衆が行える大事な作業は、総選挙で衆議院議員を選び直すことであろうと私は思います。
7月8日に安倍元首相が殺害されて以降を振り返りますと、10日に参議院議員選挙が行われましたが、そのわずか4日後、岸田首相は「民主主義を断固守り抜くという決意を示す」との見栄を切って、法律で規定されていない国葬を、国会承認を求めないで、勝手に決定しました。その後、殺害動機が統一教会への強い恨みであった事実、反社会勢力を取り締まる責任者の二之湯国家公安委員長が統一教会関連団体の大会の実行委員長を務め、被害届が多数あったのに立件しなかった警察の不当性について謝罪もしなかった事実、国防に責任を持つべき岸防衛大臣が選挙で旧統一教会の支援を受けた事実、党の要職にあった福田総務会長が「何が問題なのかよくわからない」と統一教会癒着への国民の怒りに油を注いだ事実をみて、岸田首相は、事件のほぼ1か月後に内閣改造を実行しました。まさに、選挙ポスターの通り、岸田首相は「決断と実行」の姿勢を国民に見せつけました。
しかし、安倍元首相側近の荻生田政調会長が、統一教会の全面的なバックアップを受けて当選した事実、今回の参議院議員選挙でも生稲候補の支援を頼むなど継続的に癒着していた事実、伊達前参議院議長が語ったように、当落線上にある候補者の当選に必要な統一教会の支援を安倍元首相が差配していた事実、安倍元首相自身が2021年9月に統一教会系の大会で基調演説を行った事実、安倍派清和会の前会長の細田衆院議長が2019年に韓鶴子も出席した大会であいさつした事実も明らかになりました。安倍元首相自身は、在任中、森友問題での不当な国有地値下げに関わる公文書改竄の原因を作りだした国会発言、桜を見る会やその前夜祭での公職選挙法違反容疑、希代の独裁・侵略者であるプーチンを温泉に浸からせて友人としてもてなした結果北方領土復帰を非常に困難にした外交など、行政庁のトップとしてその正当な執行をゆがめる数えきれない問題行動を重ねてきました。安倍元首相はもともと国葬に値する首相ではなかったわけですが、殺害後の経過は国葬の不当性をますます強めるばかりです。岸田首相の「決断と実行」は、暮らしと政治を国民から奪うものと評価せざるを得ません。
国葬反対の世論の危うさ
ところが大きな問題は、責任者はいかなる失敗をしても責任を取らずに居座っていれば、「時間とともに失敗事実はうやむやになり、さらに責任などなかったことになってしまう」、その日本に広がる共有認識にあることは間違いないと思います。「総選挙で衆議院議員を選び直す」という喫緊の政治課題に対して、国会議員が必死でその実現に向けて活動しているようには見えません。なぜなのか考えてゆきたいと思います。
8年間も首相の座にあって統一教会と癒着し続けてきた安倍氏の国葬には、国民の多く、あるいはひょっとするとほとんどが反対しています。しかし、おそらく国葬が中止されないことは多くの反対者は想像しているでしょう。この感覚は「失敗である国葬を行った責任は誰も取らない」共有認識とつながります。国会議員やメディア関係者など、まして政治通や情報通は国葬実施の認識が前提としているでしょう。郷原信郎弁護士は、国葬を中止する唯一の方法は安倍昭恵夫人の固辞にあるのではないかと述べています。しかし、自民党は表に出ないよう、昭恵さんを必死で止めるに違いありません。
もう一つ重要なポイントがあると私は思います。それは天皇陛下のご懸念です。
天皇のご懸念の意義
2021年、コロナ禍でのオリンピック・パラリンピックの開催が危ぶまれていた時期に、西村宮内庁⾧官は、「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています。」と発言しました。これについては大澤真幸さんの指摘を基に考えたように、天皇のメタ空気としての立場が重要になると考えます。憲法第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と定めています。また第4条第1項は「国政に関する権能を有しない」となっています。どうみても主権者の総意に基づかない国葬について、国民の統合の象徴である天皇陛下が懸念を表明されたとして、「国政に関する権能を有しない」に反するでしょうか。上皇陛下は2016年に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を表明され、退位されました。これは、「憲法の下,天皇は国政に関する権能を有しません」と前提を確認したうえで、「高齢のため、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じられる」と述べられました。今上陛下は、上皇陛下が示されたこの覚悟を受け止めたからこそ、宮内庁長官に「オリパラについての陛下のご懸念を拝察している」と発言させられたのだと私は推測します。
さて、たとい天皇が懸念をもっておられることが国民に漏れ伝えられたとしても、政権は、菅前首相がオリパラを実行したのと同様、国葬実行を中止したりはしないでしょう。問題はその後だと私は考えます。陛下がもし国葬に懸念を示されたなら、それは伏線として解散総選挙へつながる要因になるからです。
つまり、国民の過半数が反対している国葬を押し切った事実は政策上の失敗であるのですが、「失敗の責任は誰も取らない」ので「失敗はなかったことになる」との岸田首相の期待は、たしかに目論見どおりになる可能性があります。そうならないようにするために天皇の役割があると思うのです。
五輪への懸念に関する宮内庁長官会見のことを書きましたが、現在、五輪にかかわる様々な疑惑が立件されかけています。莫大な予算を特定の利権につぎ込んだ五輪招致は最初から疑惑に満ちていました。検察が当然踏み込むべき場面が多々あったにもかかわらず、統一教会被害届をもみ消して起訴しなかったのと同様、安倍政権の強い牽制と平目官僚の忖度に立件を妨害されていたに違いありません。その策動の重鎮であった人物の死亡に加え、コロナ禍での陛下の懸念も、遅すぎたとはいえ現在の捜査を後押しした可能性はあるのではないでしょうか。天皇陛下のご懸念には日本社会で大きな意味があり続けていると思うのです。
天皇は現人神であった戦前であっても、実際には、大方の意見の空気を読んで、それに従うように動いてきました。戦後元首から象徴に変化してもこうした「天皇のメタ空気としての性格」はそれほど変わってはいないように思います。これだけ、政権のカルト癒着が露見した現在、国葬が実行された後に、徐々に岸田首相の期待するようにうやむやになるか、岸田首相が解散・総選挙に追い込まれるか、非常に微妙です。天皇の懸念はその分岐点における伏線として大きな意味を持つ可能性があると、私は推測します。
しかしながら、今上陛下は、国葬に対して現在のところ懸念表明してはおられません。さあどうなるでしょうか。注目したいと思います。
総選挙の早期実施に向けて
岸田首相が国葬の余韻の続く中で仮に解散総選挙に追い込まれたとしても、急に日本社会の政治風土や国民の性格が変わるとは思えないので、残念ながら、責任者が失敗の責任をとらない構造は続くでしょう。でも、次世代へ負担ばかり押し付けて環境劣化エネルギー枯渇を顧みない自然と人間の関係性、大量虐殺を伴う戦争を回避できない人間と人間の関係性、これらの深刻な問題は、日本だけではなく、百年を単位とするゆっくりした変化を待つしかありません。また、外交で戦争を回避できたとしても、地球活動の極端な振れに基づく巨大災害は避けることができません。こうしたなか、徐々に変化をしてゆくうえで、現状問題の認識を変えてゆく大きな出来事は重要な意義を持ちます。突発的で予期せざる事象によって階段状に変化すると考えられるからです。現実的な妥協点を人々が自由に議論して見出すこと自体が必要で、日本ではこの習慣が育たないことが非常に大きな問題です。自由な議論を交わすためには、カルト癒着の政治が居座ることを絶対に許すべきではありません。総選挙が速やかに行えわれるよう、願うばかりです。